\越境日記④(本プロジェクト中に感じた諸々編)/
vol. 13 2025-03-20 0
こんにちは、中の人の浅田です。
西山さんに最近連絡取ったところ、太宰治『新ハムレット』の同時期の小説『正義と微笑』 を読んでるよと近況報告いただいたので、こちらも読み進めたりしています。(青空文庫でも読めますので、是非是非)
太宰治というと『人間失格』『走れメロス』などがパッと思いつくかなと思うのですが、文才は知っていたけれどもやっぱり面白い‥‥という頭の悪い感想が浮かんできます。
(全く関係ないですが、オモコロさんの『本を読んだことがない32歳が初めて「走れメロス」を読む日』の記事を読んだときは度肝抜かれたので、こちらもよろしければぜひ)
と、今回は「本プロジェクト中に感じた諸々編」です。
非常に曖昧なふわふわテーマですが、ここ数日タイトル悩んでたんですがそうとしか言えないなと思いまして、というわけで、書いていきます。
“→実験映画??”
本企画が始まった10月頃、西山さんから“イタリア式の方法論と思想から言って、既成の価値観とは違う、何かしら新しい価値の創造を目指す”ことが肝要ではないか、という話が出ました。新しい価値の創造って‥‥何??という疑問が生まれ、新しい価値を生み出す=実験的ということ?と思い
と上記のメールを西山さんに投げつけたのですが(今当時のメールを見ると、まだ緊張が取れてないのか、テキストの端々に恐る恐る感が出ていますね)、そこで西山さんから
〜(略)いわゆる実験映画と言われるものでは技術や形式の実験が多いような気がしている。
芝居を追求するのは演劇的で映画的ではないと思われているのかもしれない。ぼくは実験という言葉をときどき使いますが、試みることは芝居に関わることが基本で、また芝居もなるべく科学的客観的に考えたいと思っており、イタリア式についてもなるべく科学的に分析してアプローチしたいと考えている。そのため一般的に考えられている「イタリア式」とは少し違うものになっていますが、それが進化というものだろうと思っている。
といったメールが。そこで、「映画」「演出」とパッと調べてみると、確かに最初にカメラワークのことやテクニカルなことが多く出てくる一面があるかなと。
これは私の所感ですが、私が西山さんの現場にいる中で“カメラワーク”についてはほとんど出てくることがなかったように思います。まず第一に俳優の演技、そしてそこに寄り添う形で「カメラはこの演技の中で何を押さえるべきか」というところに着眼します。逆に、カメラ側で「ここを押さえたいがカットを割る必要がある、が割るべきではないと思う」と意見が出た時は「じゃあ俳優を動かそう」と柔軟に演技を変更します。
本プロジェクトでは「俳優、監督、スタッフとジャズセッションのように制作を行う」ということも掲げているのですが、その姿勢が上記の柔軟なスタイルに通ずるのかなと思っています。
イタリア式本読みについてはもちろんですが、こういった制作スタイルについても今回チャレンジングなことをしていこうと思いますので、その点もぜひご着目ください。
(下記、西山さんが監督ではなく「監修」として撮影された映画美学校フィクション・コース生の短編です。1シーン1カットで撮る、という縛りが実はあるのでその点に着目しつつ見ても面白いかと)
と、今書いていて思ったのですが、西山さんがおっしゃった「イタリア式についてもなるべく科学的に分析してアプローチしたいと考えている。」の部分、へえー!と思ったんですが、全然これ私の中で未解消でした。分かってるふりしてる、よくないやつ。というわけで、こちらに関してはプロジェクトがいざ進行!となったら『西山洋市の演技論』チームとも追求していこうと思います。
“イタリア式本読み を実践すること”
演出論について、知ることと実践することは勿論違います。
イタリア式本読み、私も何度か現場で実践したことはあるのですが「フラットな状態」からカメラでの撮影に持っていくのが本当に難しい。
そもそもが「俳優に自らに潜む「先入観」を気づかせ、監督もその「声」を直に聞くことで、自身の演出に潜んでいた先入観に気づく」という演出論なので然もありなん、なのですが、“先入観に気づくことがそもそも滅茶苦茶に難しい”のでフラットにしてもそこからどう動かすかが分からず、現場が止まる、ということなのかもしれません。
蛇足ですが、大学時代に客演で他の劇団にお邪魔することがあったのですが、その劇団独自のメソッドを知って、これは使える!と思って自分のサークルに戻った時にそれをちょっと使ってみようかな、と思って使ったことがままあったのですが、基本私の場合事故りました。聞き齧り程度で使うものじゃない。特に俳優は自身の身体を使って表現するものですから、下手にメソッドを使うと自分の安全を脅かすこともありうります。
今回製作する『西山洋市の演技論』(仮)も上記の点には本当に気をつけて制作しよう、と制作チームと以前話したことがあるのですが、そんな時にちょうど万田邦敏さんの応援コメントをいただいていて、
==============================
何よりもまず、西山洋市が作る現代を舞台とした不思議な時代劇を見てみてほしい。そうすれば、西山が日本で最も先端的な映画づくりを行なっていることがわかるはずだ。
西山自身はその演出作法を溝口の、小津の、そして何よりも山中の「再発見」と捉えているが、その再発見を実作として作品化するためには「イタリア式本読み」の導入が必要であることを西山はさらに発見したのだ。その点にこそ西山の独創と聡明がある。
しかしまたそこには、西山でなければ実現不可能な演出作法の絶対的な秘密が存している。何故なら「イタリア式本読み」が即山中、溝口、小津に通じてはいないからだし、何より西山の映画は、他のどの映画と似ても似つかない西山の映画としか言いようのない代物だからだ。
今回の新作と、それができるまでを追うドキュメンタリー映像が、果たしてその秘密を暴くことになるのかどうか。おそらく、更なる秘密が上塗りされるだけではないか。しかし、むしろそれこそが見たいという倒錯はきっと私だけのものではないだろう。
万田邦敏監督『UNloved』『愛のまなざしを』
==============================
「更なる秘密が上塗りされるだけではないか」の部分、チームでもあ、あ、ありうる、、と慄いたのですがそこについてはまたアップデートの記事として起こします(予定)
と、本日はこの辺りで。
実はクラウドファンディング終了まであと9日。(3月28日(金)23:59まで)
引き続きのご支援・ご拡散、何卒よろしくおねがいいたします!
https://motion-gallery.net/projects/nishiyama_project