〈はなさじ企画〉の面白さについて
vol. 7 2020-03-16 0
応援いただいているみなさま、いつもありがとうございます。
先日より、演劇祭参加団体で上演がかなわなかった劇団を、特に思い入れのある委員がひとつひとつ紹介しています!
本日は、若くてクールでオルタネイティヴな、こちらの劇団を紹介します!
はなさじ企画
《概要》
はなさじ企画 主宰・脚本・演出
青木幸也(あおき・こうや)
1998年生まれ、東京都出身。シラカン所属。はなさじ企画主宰・脚本・演出。2017年、観客を作品の一部とすることを意識した演劇を手がけるはなさじ企画を旗揚げ。主な脚本作品に『黄昏ゆーれいランド』。主な作・演出作品に『ほのあかり』、『おめめ(目目)ぼうぼう(茫茫)』、『どうやら遺伝的なものらしい』、『弱法師』、『ウトウ』。(HPより引用)
このコラムを担当している職員Hは、主宰の青木さんの公演を(短編の「ウトウ」を除き)全て劇場で観ており、彼に対しても、周りの人間に向けても称賛の言葉を送ってきたつもりだ。
中でも、旗揚げ公演として披露した「ほのあかり」は私の中で再演が待たれている。この作品でも、多くのはなさじ企画の作品と似たように人が突然死に、不幸になり、急に幕を閉じる。
はなさじ企画の作品では、合理的な論法や科学的な思考とはまた異なった、彼自身の直感的ともいえる思想が色濃く根付いている。
彼自身が持つ思想こそ、合理的に導かれ日々練磨されているのだろうが、
私にはそこから、ただの非常事態への肯定というよりも、「諦念」や「疑念」、クールな彼らしい「抵抗」が常に直感的に提示されているように思えてならない。この諸所が私の興味をたびたびくすぐっている。
「ほのあかり」でも、登場人物は他人の言葉に対して素直に返応しない。
どこかズレた差し合いがおこなわれ、勝手にいなくなり、勝手に戻ってきては、一般に「悪事」や「不可解」と思われるおこないや儀式を無邪気に他人にかざし、受け手は直面する事を「どうでもいい」事として時に受け取らない。その上、そのまま避けきれずに身に受けたり、1人で泣いたりするばかりで、正義を決して振りかざしはせず、静かになり、終演する。
ここまで挙げた「諦念」「疑念」「抵抗」「悪事」「不可解」というワードは、
はなさじ企画の核を推測するにあたって、少なからず正鵠を射る髄ではないかと感じる。
私は彼の既成作品の全集を読んでいるような心地で、そこから読み取れる髄について、
以下に彼の魅力を整理したいと思う。
また今回の演劇祭に参加する予定だった「入りやすい峡谷」も、きっとそのような作品群の中に位置付けられるのだろうと、
今回のクラウドファンディング用の記事の性質と合わせて、
延期した本作を観に行く際の指標になればーー動員が増える事に寄与すればまた幸いに思う。
以下3点、私が観劇した全作品に触れながら、
はなさじ企画の作品に宿るものを整理する。
①音楽
大学内での公演であり、辺りを走る大型車の音さえ聞こえてくるような静寂さにおいて、ボリュームではなく呪詛じみた効能によって耳を破裂しようとでもいうような手法で丁寧に描かれた、私の特に愛好する「ほのあかり」は例外としてーーもしくはその禍根から生じた傷をより分かりやすく自覚させ、効率的に蓄積させる手法として、
青木さんは舞台の大きな要素として音楽の音色、リズムを用いる。
彼がその手法に確信的に乗り出したのは、「おめめ(目目)ぼうぼう(茫茫)」という、はなさじ企画2作目にあたる上演だと私は感じている。
入り組んだ文章に補足を加えるのも心苦しいが、「おめめ(目目)ぼうぼう(茫茫)」が東京学生演劇祭という、短編の演劇のコンペティションに参加していた作品だった事からもわかるように、彼は学ぶ意欲の高い種の、学生だった。なんなら彼の上演は全て在学中の作品と分類され、「入りやすい峡谷」も学生として最後の公演になる筈だった。
私は彼の大学内での、はなさじ企画旗揚げより以前に学校課題として発表された作品もわりと(殆ど)観に行っている。そこから続いた「おめめ(目目)ぼうぼう(茫茫)」は、私にとって彼の特徴を大きく前面に押し出した上に、バランスを損ねる程、彼自身が作品の中で模索体験を通過している最中のような、深く位置する「彼自身の納得」を獲得しようとする作品に思えた。
「おめめ(目目)ぼうぼう(茫茫)」は、隔離された島で、自分と同じ名前の人間「オオクチハナ」が増殖していき、オオクチハナが自分が本物である確証を得ようとしていく物語である。
この物語では、語り部が語り部としてのステイタスを保ったまま舞台に参入するなど演劇的な試みが投影される一方で、やはり突然の死や突然の舞台からの退場(後述するが彼の作品には遺伝子、文化的な伝達や模倣という意味での「ミーム」が扱われる事が多く、遺伝子のような螺旋状に並んだ大勢の役者が花道まで使って繰り返し舞台を出入りする試みも加えられている)、名前が朧ろになる事による自分の存在への「疑念」、自分がオオクチハナであると否定された偽物たちのあっさりとした「諦念」、細胞のように分裂するオオクチハナの個性としての「不可解」さ、オオクチハナから模倣させられた者たちへの「抵抗」など、彼の現実に向けられた考え方が散りばめられている。
加えて「茫茫とした視点によるある女のドキュメンタリー!」がキャッチコピーにあげられているように、彼の作品にとって無視できないおどけたユーモアも生き生きとしていた。
一方で彼の思想的な特徴を覆い隠す程の、演劇的な試みが多い印象が強く、以降のはなさじ企画を語る上で大きな存在感を持つ「音楽」の挑戦性も試みとして例外ではなかった。
「おめめ(目目)ぼうぼう(茫茫)」では2人の作曲担当者を擁し、物語の全体を覆っていた。私自身は傑作を狙う事で肩の力が入りすぎてしまった作品であると、彼の作品群の中ではこの作品を位置付けているが、以降の、彼の考えを、場合によっては痛々しく露悪的なほど鮮烈にする音楽群の、先鋒を担ったと感じている。
この作品以降、青木さんとのクリエイションメンバーとして、(作曲の功績を担って王子小劇場からも佐藤佐吉賞 特別賞を出した)音楽を担当する事の多い丹野武蔵氏の存在が、はなさじ企画を語る上で大きくなってくる。
はなさじ企画の舞台として、特に音楽が大きく功を成したのが、3作目の「どうやら遺伝的なものらしい」であると私は感じている。全編に渡って、静寂を生かすのが効いている音楽だった。
はなさじ企画には一貫して、静寂がリズムをなしているという性質があると感じる。そこを私たちに分かりやすいように再定義化して、「やさしい音色」と「登場人物たちの頭の中のスピードを示すようなリズム」を持つ丹野氏の音楽が支えている(なお、はなさじ企画は「どうやら遺伝的なものらしい」で、佐藤佐吉賞 優秀演出賞を勝ち得ている)。
②遺伝子
「どうやら遺伝的なものらしい」は、突如として体が衰えていく病を遺伝してしまう一家が、空飛ぶ家やプテラノドンとの婚姻の中でファンタジーとして溶け込ませようと抵抗するが、避けがたい死を徐々に受け入れていく物語である。
彼が一度、分厚い本を私の目の前に差し出した事がある。スーザンブラックモアの「ミーム・マシンとしての私」という本である。オススメなので是非読んでください、と彼は言っていた。
彼が深めようとする作品への思想として、大変興味深く思ったのを覚えている。彼の作品は上述してきた特徴とは別に、常に個人とは関係なしに形成される「遺伝的な人格」を取り扱っていると私は感じる。
18歳の彼が学内で、初めて作ったという舞台からそうだった。舞台が始まると、大きな包丁を持った男がなにやら揶揄われている。男はしかし、代々継いできたのだろう特異な漁師として突飛な価値観で物騒な事を言い、変わった「捌き」方をする。あらゆる事が突然私たちの前に次々に突きつけられ、そして男はいなくなり舞台は急に終わる。台詞の詳細こそ覚えていないが、ここには彼の出自と根深いキリストの教えが根強くあり、私は潔いまでにシンプルで、ユーモアが張り巡らされた展開にやさしく昂揚を誘われた。
一方で遺伝的な老いから極端な程に離れ、昼間のショッピングモールに屯する老人が妄想の世界を口伝で共有し合い、没入していく「弱法師」も、とてもシンプルな快い作品だった。
空想上の、現実から離れた世界についていけずなかなか入り込めない老人は、ようやくそこに辿り着いた時にみんなと違う空想上の世界の点に落とされ、みんなと出会えないうちに置いていかれてしまう。こういった締め括りも、思わず笑ってしまう物悲しさをたたえているのとはよそに、運命に対して諦念を抱えている青木さん自身の姿をより鮮やかに示している意欲作だったと思う。
彼は遺伝子をシンプルに扱っている。
シンプルだからこそ捉え難いという問題に対し、「入りやすい峡谷」がどのようなアプローチを仕掛けるのか私は楽しみにしていた。延期した際の上演も同様に心待ちにしている。
③衣装
青木さんは大学の先輩が主宰の別団体に所属している。ユーモアの向こう側を表した造語をモチーフに活動している劇団だ。特にその形式が目を引くセクションが、その団体の場合は舞台美術である。
はなさじ企画の場合、美術は徹底して簡素であるが、衣装に同様の可愛らしさを感じる事が多い。あどけない、無邪気という言葉もよく似合う。
それも音楽同様、はなさじ企画に参加するクリエイターの力なのかもしれないが、作品に巧みに寄り添っていると私は感じる。
彼の作品を見たうちで、これまた特に私が好きな作品は初め、学校課題としておこなわれた。
講師の劇作家が創った既成の音楽を全編に使用する課題で、彼は雨の中で傘を持った自己犠牲を伴わない男を主軸に、完全に美しくシンプルな世界を築いてみせた。はなさじ企画の上演記録としては記載されていないが、私の公演のオープニングアクトとして全公演中の半分のステージで披露してもらった事があり、私は何度見てもその美しさにうっとりとする。
その男はエゴを諦念している。だからどうでもいい会話や諦めた末の自己の犠牲により世の中のバランスを保とうと、控えめに笑って事をなしていく。そして最後は轢かれて死ぬが、誰も彼に何か贈与してはくれない。ハリウッド映画ならここから何かの贈与がおこなわれて物語が進行するのだろうが、彼はしない。タイトルは恐らく無いのだろう。雑記のようなこの文章は、全集に対してはなさじ企画を読み取る事でこの雑記のような「無題」に言及できて私は嬉しく思う。“ここ”こそにはなさじ企画の本筋は見やすくあると思う。
衣装がすると際立っていた。スーツである。役者さんが持っていたもので、それでいいと青木さんは言ったのだろう(この時の役者は先述した丹野氏であり、はなさじ企画の世界にうまく溶け込んでいた)。
髪が長く伸びた男は着慣れたスーツの肩のシワの部分に髪をさすらせながら、困っている人のもとに駆け寄る。男はだんだんと弱っていき、スーツも崩れていく。ここで私が感心したのは、初めからやや崩れていたスーツがどんどんと過剰になっていった点だ。ここの美しさは、青木さんも見ていたと思う。
はなさじ企画の衣装は過剰だ。過剰だが、それがもっと向こう側へと展開を追うごとに過剰さを増していく。そこに物悲しいユーモアがあり、青木さんが所属する別の劇団とは別のはなさじ企画の回答が示されている。
私ははなさじ企画の作品をまた見たいと思う。はなさじ企画の危ない思想にもっと浸り、私自身の生活に向けて利用していきたい。
そういった観点で私ははなさじ企画を応援する気持ちを持ち、上記の文を書かせてもらった。
はなさじ企画を観て、何か感じた事に対して言葉を交わせると重ねて幸いだ。
例えばその為には、
今はなさじ企画は公演中止によって、貧乏な彼にとって大変なはなさじ企画の負債を1人で負っているわけだが、1人でも多くの応援が必要になっており、
こうした緊急事態である現状、受けた打撃を見ても大きな数からの応援がまた必要になっている。
1人1人の思いや応援の熱量は異なるかもしれない。しかしかけがえのない演劇界の財産である彼をまた、
守る為にもクラウドファンディングから、
若い才能を守る、それぞれなりのかけがえのないご支援をお願いしたく存ずる。
一緒にはなさじ企画を見れる未来で、また会いましょう。
御応援、よろしくお願い申し上げます。
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