京都にあった東京ラーメン〜映画監督・木村文洋からの手紙
vol. 13 2025-07-23 0
かつて京都・吉田には「東京ラーメン」という名店がありました。店主のお爺さんが400円から素晴らしいラーメンを出してくれ、学生はもちろん、昼休憩の運転手、仕事終わりの方々までがひっきりなしに通い詰めていました。そこで昼をとり京大のタテカンを自転車に乗り眺め、バナナ・アルバムを看板にした「Joe’s Garage」でCDを覗いては授業に戻り、夜は「MICK アリスが落ちた穴の底」で友人と話すこともありました。20年以上前の、一学生の冴えない思い出です。しかしいずれもひとつひとつが、ひとの人生そのものを差し出してくれたような経験で、齢45歳のいまも記憶に強烈に残っています。学生の街。一過的に通り過ぎる街の性質が強くても、それ以前の歴史を渡してくれるような凄みがありました。
たまに「東京ラーメン」のあの味、「MICK」の謎めいた内装に再会したい想いに猛烈に駆られるのですが、もう叶いません。それらはお爺さんの年齢などからいっても仕方のないことでした。夢の中でしか再会できないのです。いまの時代に果たして残っていたかはわからない「東京ラーメン」の味は唯一無二の、じつにいい味でした。
「中華そば みみお」の味は一言で言って、いい味なのです。
いまから24年も前のこと。前夜、映画祭のゲストとして若手制作者と激論をし尽くした佐藤訪米監督/店主が、その余韻を忘れられず翌夕に祇園の南座裏にある店を訪ねた僕に、「お。昨日いたやつやんな?」とカウンターにお茶を出してくれ、もそもそ仕込みだしたその味。破天荒なイメージとはギャップのある、ミニマルで慎ましやかで奥深く、丼とレンゲに広がる世界に酔いしれました。そこで僕は一年ほど働くことになるのですが、店主と市場で仕入れるガラ、煮干し、野菜、豚、醤油…ひとつひとつを別々の店から買いにいき、時間をかけてスープを仕込みます。宵の口から未明まで、じつにさまざまなお客さまにお出ししてきました。お客さまのそれぞれの仕事の勝負の場。一日の勝負の帰り、あるいはまた勝負に向かう祇園のお客は厳しく怖く、「スープがお前の日は甘い、それで熱さが足りへんねん。兄弟子の日は強い、店主の日は深いねん」「このかけてる曲なんや?世には知らんひともおるもんやなあ」そんな日々の連続でした。僕は数年後に京都を出ましたが、佐藤監督はあれから25年、前線でお客さまと対峙して味を磨いてきたのだと思います。
みなさまには、再会したいお店はあるでしょうか?
僕は京都を離れ、東京で労働に明け暮れていくなかで、なかなかそういったお店に出逢えることは少なくなってきました。日本全国、街全体が変わりつつあることを感じます。時代の流れのなかで、ふっと気を抜いてしまうと、味、記憶に再会できなくなる哀しさを繁く感じるようになってきました。街の町中華、定食屋、銭湯、魚屋、豆腐屋、野菜直売所。できるだけ気に留めて覗いてみます。互いの出逢いの出来不出来はあれど、そうしたことの方が圧倒的に面白いからです。
「みみお」をぜひ一度訪れられ、忌憚のないお声がけを店主やスタッフの方にされてください。中華そば みみおはまだ生き続け、時に息をあげながらも、変わり続けているはずです。
あと一見強面の店主のカウンター越しの世間話はじつに広く、奥が深く、そこも気が向かれらたら、味わわれてください。これらが一度すべて集合したのが、監督の新作映画「NEVER MIND DA 渋さ知らズ 番外地篇」になります。佐々木彩子さんはじめ出演者の皆さま、編集のサライさんと長い年月仕込んだ、じつに細かく手の入った、味わい深い映画でした。
映画監督 木村文洋
2004年の祇園大和会館時代の「中華そば みみお」。祇園、木屋町の飲食業の方々もお客様で集い、定期的な交流を重ねていた。
こんな写真が届いてびっくりした。20歳の頃からここへきては四条の街を眺めていた。そしてそこに住みつき、この屋上を舞台に映画「京極真珠」を撮影した。その頃、映画といえばまだ16mmフィルムだった。そしていまはもうこの風景を見ることはできない。祇園の九龍城ともいわれた大和会館はもうなくなった。哀愁を誘うわけではない。諸行無常のこの世の中で生きる私たちは、たとえば京都の町屋がどんどん潰されては、次々と建設される安っぽいハリボテのホテル群を前にしてなす術もないのか。
いや〜時流ってものがありますからね、商売ってものはこだわりとか言ってたら成り立ちませんよ。映画もそうか、ラーメン屋もそうなのか。ではこの25年あまり、みみおの味を好きだって言ってくれたお客さんたちの、その期待に応えようと重ねてきた年月とは一体なんだったのか。私はなにか掛け違ったのか。
木村文洋は私が立ちいかなくなりそうになった時にいつも支えてくれる。師弟関係を結んだ訳でも、映画を教えた訳でもない。ただラーメンの作り方は教えた。もう一人、映画監督として活躍する山崎樹一郎とふたりして初期のみみおがピンチに陥った時から、今回の私の撮影現場にも応援に駆けつけてくれた。
彼は監督作品の「へばの」「息衝く」を通じて、つねに地に足をつけた位置から私たちにやんわりと警鐘を発しつづける。実直だが、不器用なのだ。それが文洋の人間味だ。私も似たところがあるかもしれないが、弱者の視点からなにかを発するということは、自らハンディキャップを背負うことである。
私の娘がハンディキャップを抱えて生まれてきてくれてもう20年あまりが経つ。彼女の将来を考え、祇園から現在の吉田に移転してきた経緯もあった。だが、あの熱狂の騒ぎで全てはひっくり返った。店のお客さんに「映画、撮らへんかった方がよかったか?」とも言われた。たいがいの方々はもうあの悪夢のことは早く忘れたい一心かもしれないが、当時私は、私を含めた小規模飲食店、インディペンデントのアーチストやライブハウス、ミニシアターや小劇場、また子どもや学生たちが抱えていた気持ちを世に伝えたい一心で撮影に踏み切った。その気持ちは今も変わらない。
なぜなら後の祭りはまだ続いているからだ。そして小さい方の鉾(山車)から順に弾かれていってる。しかし地元の人からすれば、みみおはずっと閉まってたし、いつやってるか判らへんもん。いまだにそう言われているらしい。むかしこの辺、村八分ってロックバンドが京大の西部講堂あたりでようライブ演ってたらしいで。そんな伝説みたいなのと一緒にしてもろたら困ります。みみおは這いつくばってでもまだ生きていきたいんです。
これは理解しづらいかもしれませんが、旧来の日本人的感覚からいうと、クラウドファンディングとはつまり物乞い。かつて南座裏で蠢いていた私からすると河原乞食で結構、そこは阿国のお膝元。誰が私に教えたか、映画となると命がけとなってしまう癖がある。ラーメンについてもそれは同じ。わけ隔てはない。人間がみな同じくして平等であるように。