【記録集】第1章ためし読み|記録するということ
vol. 7 2017-04-19 0
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制作中の「記録集」から、ためし読み第二弾をお届けします!
第1章の座談会では、さいたまトリエンナーレ2016のサポーター活動を振り返っています。参加者は、芹沢ディレクター、サポーター・コーディネーターの藤原さん、市民サポーターの直井さんと八木さんです。ぜひ、お読みください。
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「記録する」「残す」ということについて
ーー記録とは、どのようなことなのでしょうか?
直井:記録集の活動を一言で言うと、サポーター活動のなかから生まれたもの、頓挫して消えたもの、そして自主的に集まって活動している現場が面白いという感覚。そういう「自分達が見たり感じたりしたこと」や、それでもなお「皆のやりたいこと」をまとめて、それらをより多くの人に知ってもらうための「記録」なのですよね。
参加する芸術祭と言っている以上、サポーターの目線でサポーターが考えてきたことを世の中に発信したい。そのためには記録しておく必要があると思いました。私のなかで「記録」というのは大事なキーワードになっているのです。あと「残す」とか。
藤原:昨年6月に直井さんに会った時、やっぱり僕も記録を残したいと考えていました。イベントとプロジェクトの違いは、記録を残すか残さないかだと思っているのです。イベントはやりっぱなしで振り返りはしないけれど、サポーターの自主企画も含め色々なプロジェクトがあったなかで「結局そのプロジェクトが何だったのか」という振り返りはしたいと思っていました。
芹沢:物質的な意味での作品を否定しているわけではないのだけど、まず、トリエンナーレのようなアートプロジェクトという場合に、プロセスが重要というか、そこに命があるようなものなんですね。
今回のアーティストの中にも、作品の間に「記録」を挟み込んでいるものがあります。新しい骨董やオクイ・ララさん、JACSHAもそういうものを入れていて、日比野克彦さんも別所沼公園の方で出していました。
それは全体として時間の流れとか関係性が色々出てくるところにものすごい醍醐味があるので、途中経過というような感じで作品として見せていく。これは最近よく使われる手法になりつつありますが、じゃあそれで伝わるかどうかはまた別ですね。それは誰にでも答えが出せるようなことではないんです。だから今現在「アーカイブを残さなければ」という話が色んなところで出ている。だけど、これもまた難しい問題だと思っています。
とにかく記録を集めて、それを一か所に封じ込めておけばいいのか、一体何のためにアーカイブを作るのかという議論が起こっています。次のものを生み出すための記録になっているといいけど、「終わりました」という存在証明のような、やったことの免罪符、とまでは言わないけど…よくあるのが二度と誰も読まない報告書のようなもので、アリバイ証明みたいな。
一方、そうは言いながらもやっぱり今、電子的なテクノロジーの記憶媒体の容量が信じられないほど大きくなっているから、何でも記録をして、何かの役に立つかわからないけど、とにかく蓄積して残していくのが大事なんだ、という捉え方の人もいます。でも、そうではなくて、そんなのは結局利用できないんだから、ある種の編集をされてこそ記録になるんだと考える人もいます。もうその正解はわからない。
これは今ちょうど、さいたまトリエンナーレだけの問題ではなく「記録」と「現代美術」、特にアートプロジェクトに関しては一番ビビットな問題としてあります。だから、そういうものにどうやってアプローチしていくのかというのは一つの実験として意味があると思う。
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お読みいただきありがとうございました。これは、ほんの一部です。記録集の完成を楽しみにしていてください!
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