番頭日誌 第十六話「高砂」
vol. 16 2023-11-01 0
毎度お世話になっております。
京丹後TRAILERの番頭でございます。
クラファン開始から【45日目】。
現在、【180名】のコレクター様からいただいたご支援額【¥2,110,000】。
目標達成率【263%】。
皆さまからのあたたかいご支援、本当にありがとうございます。
クラファン期間も、あと10日間となりました。
最後まで応援のほど、よろしくお願い申し上げます。
さて、私の人生の記憶を掘り起こしながら、私の音楽体験などを振り返っております番頭日誌も、だいぶ現在へと近づいてまいりました。
もうここまで来たら引き返せませんので、このままキーボードに指が運ぶまま、完走を目指したいと思います。
「片道切符の歌」を聴いて精神統一。いざ。
2011年03月に起きた出来事のあと、私は私を改めたいと思うようになっていました。
私は、今までとても自分中心な考え方のもと生きてきてしまったことを省みていました。
もちろん、まだまだ今でもそういうところは多々あります。
またしても。情けない。ぐうう。トホホ。となることも少なくないですが、少なくとも省みれるようにはなってきました。
精進を重ねてまいりたいと思います。
そして、大きな心境の変化として、私は故郷に帰りたいと思うようになっていました。
つい数年前までは、そんなふうには全く思っていませんでした。
あの出来事のあと、家族や、親戚や、友人や、故郷のことを、よく考えるようになっていました。
その頃、私は妻に結婚の申し込みをしておりました。
妻は大阪出身ですが、いっしょに私の故郷に行ってもいいと言ってくれました。
とても有り難いことです。
それを、また私が自分中心に捉えてしまうと、私には大きな罰が当たることでしょう。
初めて正社員として雇ってもらったその会社で、私は多くの経験をさせてもらいました。
大企業の部長さんや課長さんと施策の内容を詰めたりさせていただくなかで、たくさんのことを教えていただきました。
企画会社さんともよくご一緒させていただきましたが、ビジネスの猛者のような方が多くいらっしゃり、たくさんのことを教えていただきました。
そして何より、自社のなかに、おもしろい人たちが多すぎました。
合わない人もたくさんいましたが、一歩引くと、それは一風変わった個性でもあり、自分とは違うと言い切った上で「おもしろい」でもあるのでした。(でも、ケンカもいっぱいしました。ワハハ。)
色んな人がいるのだな、ということを学んだ私の大阪サラリーマン青春編なのでした。
と、同時に、このままではいけない、という強い焦りの気持ちがありました。
故郷の田舎に帰りたいと思っていても、仕事の保証がある訳ではありません。
自分の仕事は何なのだろう、何を仕事にするべきなのだろうとずっと考えていました。
自分の人生に、何か強い変化が欲しいと、ずっと考えていました。
その頃、ひさしぶりに友達のバンドを観にライブハウスに行きました。
姫路のbachoというバンドです。
bachoとの出会いのきっかけは、CONSTRUCTION NINEでした。
姫路にbachoというバンドがいて、とてもヤバいバンドだとコンストのみんなから聞いていました。
最初にbachoのライブを観たのは2006年頃だったと思います。
ライブを観て、私も一発でヤラれてしまいました。
そして、bachoのみんなもとてもおもしろい奴らで、すぐ仲良くなりました。
その後、2007年にCONSTRUCTION NINEの「GET BACK MY BLOOD TOUR」という全18ヶ所のツアーを企画した際、西日本方面のライブは全てbachoにいっしょに来てもらいました。
ちなみに、東日本方面には、lego big morlがいっしょに来てくれました。
お客さんほぼゼロ、みたいな日もありました。ワハハ。
懐かしいです。
bachoのライブを観終わったあと、bachoのベースともありと、近くのベンチで缶ビールで乾杯しました。
ひさしぶりに近況報告をしながら、最近、ビデオカメラを買ったんだと話しました。
特に理由は無いけど、なんか人を撮りたくて、そのとき撮影を始めていた遊びの話などをしました。
すると、ともありが「僕たちを撮ってくれませんか?」と言いました。
bachoはそのとき、キャリア初のフルアルバム制作を目指して活動していました。
これかもしれない、と思いました。
私は、bachoの制作を撮影するため、会社を辞めました。
正確には、正社員を辞めて、アルバイト契約にしてもらいました。
それから、毎週のように姫路に行ってbachoのスタジオを撮影したり、色々なライブに同行させてもらって撮影をさせてもらっていました。
そして、そんな日々のなか、もうひとつ仕事の面でも変化が必要だと思った私は、何か手に職をつけたいと思いました。
もともと飲食業でバイトしていたことが多かったこともあり、調理を志そうと思いました。
お世話になっていた先輩が京都市で調理の仕事をされていたので、相談しました。
ちょうど独立されて新しいお店をオープンされるタイミングとのことで、そこに加えてもらい修行させてもらえることになりました。
私の考えが甘かったです。
想像を遥かに超える経験となりました。
1日○○時間、週6で働いていました。ワハハ。
1日の労働時間が、皆さまの予想時間を上回りそうで怖いです。
これも時代だったと思います。
コールセンター業も、時にはとんでもないハードワークになることもままありましたが、飲食業界も、なかには相当ハードなところもまあまああったのではないでしょうか。
後の人生で知り合った調理師の方々からも、調理業界のすべらない話をたくさん聞けましたが、毎回、笑いながら泣けます。
それでも結果的には、おかげさまで今も私は調理師としての仕事がいただけていますので、あの厳しかった修行時期には、お世話になった先輩方には、とても感謝しています。
しかし、bachoと進めていた映像の企画は、私の思慮浅さが原因で頓挫しました。
他にも、いくつか進めていた映像の企画がありましたが、全て頓挫しました。
またしても私は、自分が原因で、大きな失敗を招いてしまいました。
約束を破ってしまったこと、とても申し訳ないと思っていました。
後悔や自責を噛みしめながら、殆どの時間をお店で過ごしていました。
そんな修行の日々が続いていたある日、ともありから連絡がありました。
「僕たちのミュージックビデオを撮ってくれませんか?」という内容でした。
新しく出来た曲のミュージックビデオを、どうしても私に撮って欲しいという電話でした。
これ、如何にもここから一気に熱い絆の物語に発展しそうなきっかけのようではないですか。
はい。
私は、その熱意を、あっさり断りました。
ごめん、今マジでそんな時間取れない。
ごめん、今マジでそんな身体と精神の状態ではない。
ごめん、今はマジで無理。
なんなら、その連絡を受けたその時も、半分白目剥いて働いてる訳ですので。
ごめん、ともあり。と思いつつも、断りました。
それから1ヶ月ほど経ったある日の夜中、ともありから再びLINEが入りました。
「おきてます?」
はい、いま1日のだいたいの時間は起きて仕事してるんです私。
するとすぐ、レーベルのオーナーさんも私にその曲のミュージックビデオをお願いしたいとおっしゃられている、というLINEのやりとりがスクショされて送られてきました。
私はすぐにともありに電話をしました。
「やらせていただきます。」
「なんで1回目で請けへんねん!」言われました。ワハハ。
私たちは、何でも笑いに変換しがちです。
そのときも、実際は心身と時間に余裕はありませんでしたが、何かが私のなかで弾けたのだと思います。
ともありが、私にやり直しの機会をくれました。
bachoのその曲は、「高砂」という曲でした。
高砂とは、bachoのギターボーカル、欽也が生まれ育った町の名前です。
私は、3ヶ月ほどかけて、わずかな休みを繋いで京都市から高砂市へ通いました。
bachoのみんなといっしょに少しづつ撮影をしました。
ビデオカメラを衝動的に買ったとは言え、動画撮影を専門的に学んだことなどありません。
気持ちだけで、なんとか繋いでいきました。
結果的に、bachoのみんなから、私はやり直しの機会をもらったのです。
ほんと、私はもらってばかりです。トホホ。
bachoの「高砂」という曲は、bachoの「最高新記憶」というフルアルバムに収録されています。
私が撮った「高砂」のMVも、YouTubeで観れます。
もしよければチェックしてみてください。
故郷とはなんでしょうか。
私は、大喜利のお題みたいなものだと思っています。
与えられる場所。
だからおもしろいですよね。
出たとこ勝負。
しかし、そこから出発して、出会ったり別れたり、それぞれの事情や動機を携えながら、選択せずに始まった話の顛末を自分で選択できる場所でもあると思います。
クラファン期間残り【10日】。
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番頭