番頭日誌 第十五話「3月のこと」
vol. 15 2023-10-30 0
毎度お世話になっております。
京丹後TRAILERの番頭でございます。
クラファン開始から【43日目】。
現在、【172名】のコレクター様からいただいたご支援額【¥1,854,000】。
目標達成率【231%】。
皆さまからのあたたかいご支援、本当にありがとうございます。
クラファン期間も、残り2週間を切りました。
最後まで応援のほど、よろしくお願い申し上げます。
さて、本日の番頭日誌は、私の人生において、私のいちばんの分岐点になった出来事のはなしをさせていただきます。
レーベルを閉業した後、30歳を目前に、私は初めて正社員として就職しました。
研修事業が母体の会社が運営する、コールセンターの事業部でした。
レーベルをやりながら、そこでずっとバイトさせてもらっていましたが、そのまま正社員として雇ってもらったのでした。
時代は、インターネット回線が電話回線から光回線へ移行する過渡期、新しいインフラの整備に、各大手通信会社さんたちも大きな予算を投入しておられました。
以前、「光回線に切り替えませんか?」というような電話がかかってくること、ありませんでしたか?
あのような、コールセンター業界ではアウトバウンドと呼ばれる発信業務もありましたし、お客様からのお問い合わせなどを受ける、インバウンドという受信業務もありました。
光回線のお申し込みをいただいたお客様に、無事に工事が行えるサポートをするコンサルと呼ばれるような業務もありました。
通信業者さまの仕事以外にも、色んなクライアントさまに色んなお仕事をいただいておりました。
もともとアルバイトで入社させてもらったとき、私は光回線への切り替えを電話でご案内するアウトバウンド業務を経験させてもらいました。
しかし私は、個人のお客さまへの電話セールスのような業務があまり上手ではありませんでした。
これは得意を目指せる業務でもないかもしれないなあと思い、辞めようと思いました。
ですが、上司に別の業務を勧められ、新人さんの研修をしたり、法人さま向けの仕事や、バックヤード業務などを担当させていただきました。
正社員にしてもらった頃には、色んなキャンペーンの情報や、お客さまからの問い合わせなどを一元管理する、事務局業務の管理職をしておりました。
当時のコールセンター業務は、割と時給も良く、働く時間の都合や融通も効きやすいということで、色々な人たちがバイトされていました。
バンドマン、ヒップホップ、レゲエ、シンガーソングライターなど音楽家の方たちもたくさんいました。
他にも、芸人、ダンサー、声優などなど、色んな方々が働いていました。
とても刺激的でした。
あの頃、あの会社で出会った人たちにも大きな影響をもらい、今でも友人関係が続いている人たちも多いです。
妻ともそこで出会いました。
業務量も多く、多忙な日々のなかで、私は社会を学ばせてもらっていました。
そして、あの日がやってきました。
2011年03月11日、金曜日。
あのとき私は、某大手通信会社さまの東日本の各都道府県の支店さまとの施策を主に担当しておりました。
平日の15時は、毎日データを取りまとめて出力し、報告をする時間になっていました。
その日も、報告に向けて、最終チェックなどを行っていたとき、それは起きました。
14時46分。
私は、大阪南森町のビルの8階におりましたが、コールセンター全体が揺れました。
みんなの空気が固まりました。
小さな地震ではないな、という感じがしました。
急な避難を要するような揺れには感じませんでしたが、また揺れるかもしれない。
震源地はどこだろうと、ネットで調べて愕然としました。
「東北地方を震源とするーーー」
とんでもないことが起きたと瞬時に理解をしました。
東京の施策関係者に電話をしました。
最初は電話に応答がありませんでしたが、しばらくして電話がかかってきました。
とんでもない揺れで、オフィスも散乱している、仕事している場合ではないと判断し、スタッフも全員帰宅させるとのことでした。
東北の支店さまにも電話してみましたが、連絡が繋がりませんでした。
ひと通り、関係者の方々への連絡や確認を終えた後、ビルの3階にあった休憩室のテレビを観に行きました。
全チャンネルが地震のニュース。
私は、津波の映像を、その怖さを、初めて目の当たりにしました。
私はあのときの言葉にならない気持ちを、忘れることができません。
そして翌日、福島第一原発の水素爆発の映像を報道で見ました。
人生最大の衝撃でした。茫然自失でした。
あの後、Twitterをよく見ていました。
デマや誤報などもあったかもしれませんが、多くの善意がそこに集まっているように私には見えました。
あの頃のTwitterが私のSNSの原体験のようなものです。
そして、優しい想像力を持った音楽家の方々が動いてらっしゃることを、ずっと見ていました。
NBC作戦、東北ライブハウス大作戦、幡ヶ谷再生大学など、その活動に私はとても心を動かされました。
私は微々たる行動しか出来ませんでした。
でも、被災地のことがずっと気にかかっていました。
私は、どうしても自分の目でそれを確かめたいと思いました。
2012年の9月、あれから1年半が経ってしまいましたが、私は同じ会社で働いていた先輩とふたり、2泊3日で東北に行きました。
仙台空港でレンタカーを借り、沿岸部を辿りながら、その日は、福島第一原発から20kmの地点まで行ってみようと思っていました。
傾いた電信柱。積まれた瓦礫の山。ひび割れた路面。
倒れたままの墓跡。崩れた家屋。人の気配が無い町。
そう、ふと、もうしばらくの間、誰ともすれ違っていないことに先輩と気付きました。
人気のない町を、空っぽの町を走ると言う経験はもちろん初めてで、異様な経験でした。
暮らしの記憶だけが取り残されているような、空っぽの町。
福島県浪江町、「この先立入り制限中」の看板にたどり着いた頃には、もうすっかり辺りは真っ暗でした。
雨の中、車の外に出て、ネットで購入して持参してたロシア製のガイガーカウンターを見ました。
中レベルの文字と線量の数値が表示されていました。
それでも十分に高い数値ではありましたが、自分が想像していたものよりは低いものでした。
その日の宿を取っていた福島市へ向かいました。
徐々に灯りが増え、車とすれ違い始め、違和感と緊張から通常の世界へ戻っていくようでした。
さっきまで居た場所にも誰かが暮らしていたのだということを考えていました。
先輩とそんなことを話しながら車で走っていると、車内でピーピーピーと聴き慣れない音がしてきました。
音のほうを見ると、ガイガーカウンターの画面が赤く光り、「高レベル」の文字と高い線量の数値が表示され、警告音が鳴っていました。
鳴り続けている間、私も先輩も黙ってしまいました。
ここには今、確かに誰かが暮らしているのだということを考えていました。
あの無言の車内が、私は忘れられません。
簡単には片付けられない問題ばかりで、私などが少し勉強したところでどうにもならないことだということはもちろん承知しています。
何か自分の思想をここで表明したり、議論を呼びかけたりするつもりも無いのです。
先ほど書いたのは、私が実際に体験した事実のはなしです。
私は馬鹿なので、行ってみないとわからないと思い、行ってきました。
でも、行ってみてよかったと思っています。
私のはなしで、お気を悪くされてしまった方がいらっしゃいましたら、誠に申し訳ございません。
誓って、何の悪意も込めてはおりません。
私は、あの3月に、次々と報道される凄惨な映像を為す術もなくアパートの部屋で観ながら、初めて、生きるや死ぬということとちゃんと向き合いました。
起きてしまった理不尽で悲しい出来事を自分のなかでどう処理していのか全くわかりませんでした。
私は、たまたま直接的にそれを被らなかっただけです。
何をどうしていいかもわかりません。
優しい想像力を持った方々は、被災地に手を差し伸べられるのがとても早かったです。
そんな方々の活動の一部分をSNSの向こうから受け取りながら、私も為す術もなくから抜け出したいと思いました。
まずは、私が心を動かされた方々に倣って、ちゃんと想像しようと思いました。
離れたところで辛い思いをしている人たちは、ただの知らない人か、隣人か。
もしそれが自分だったら、自分が住む町だったら、どうだろう。
その人たちのことをちゃんと想像しようと思いました。
まずはそこから、ちゃんと始めようと思いました。
あの出来事により、お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。
被害に遭われた方々の痛みも、私の想像を遥かに超えることばかりだと思います。
私にとっても、あの出来事はとても大きなものでした。
色んなことを深く考えるきっかけになりましたし、もっと色んなことを知りたい、知らなければならないと思うきっかけにもなりました。
自分の無知と無関心とも向き合いました。
自分の過去の行いと向き合い始めたのもあれがきっかけでした。
命のことをこんなに深く考えて、向き合ったのも初めてでした。
この悲しみの記憶は、忘れてはいけないものだと強く思いました。
その頃、人を撮影したいという気持ちが無性に湧いてきて、初めて自分のビデオカメラを買いました。
クラファン期間残り【12日】。
京丹後TRAILER
番頭