番頭日誌 第十二話「エトランゼ、再び」
vol. 12 2023-10-20 0
毎度お世話になっております。
京丹後TRAILERの番頭でございます。
クラファン開始から【33日目】。
現在、【158名】のコレクター様からいただいたご支援額【¥1,759,000】。
目標達成率【220%】。
皆さまからのあたたかいご支援、本当にありがとうございます。
最後まで応援のほど、よろしくお願い申し上げます。
もはや、もう誰も読んでいなかったとしても、戻れなくなってしまった番頭メモワールでございます。
若干の、いや、すみません嘘です、それなりの後悔を奥歯で噛みつつ、本日も書き進めてまいりたいと思います。
噛んでも噛んでも、割と味が長続きするんですよね。ワハハ。
そして、皆さま全員がもうお気づきの通りでございまして、皆さまにとって何の得もない、無価値な与太話ばかりでございます。
通知のお知らせだけご迷惑をおかけいたしますが、不要な方はミュートしていただけましたら幸いでございます。
大変お手数をおかけいたします。
私の友達は、トイレのお供に読んでくれていると言っていました。
置いていただけます方は、そのあたりの置き場所に置いてくださいましたら、これまた幸いでございます。
しかし、振り返っておりますが、他人様に誇れるようなお話が全然ありません。
出会ってきた音楽や、その他の色々な表現のことなどを思い返すと、自分のルーツを改めて知るいい機会になっております。
ですが、要所要所で自分の過去の失敗や失態と再会してしまうので、カエリミールが発動してしまいます。
でも、それが唯一の価値かもしれないな、と思ったりしています。
悪い見本にはなれるかもしれません。
私のようになってはいけません、になることができたら、それがせめてもの心やりです。
私をみて笑っていただければ、せめてもの、です。
カエリミールって何、と思わせてしまった方、すみません。
何の意味もありません。
さて、では本日も時間を遡りたいと思います。
勉強机の引き出しの中が、時空間へ繋がっているというあの描写、私はとても好きです。
2003年頃、大阪。
バイトは色々やってましたが、サービススタッフや、簡単な調理などの、賄いがついている飲食業が多かったですね。
衣料品会社の倉庫などでも働かせてもらったり、いくつかバイトを掛け持ちしておりました。
ある日、ランチ営業のスタッフとしてお世話になっていたお店の女将さんから、もうランチ営業を辞めるとお話がありました
もうそれは仕方がないことです。
平日ほとんど毎日働かせてもらっていたので、次を探さないとなあと思っていました。
その週の土曜日、楽しみにしていた映画を観に行きました。
いちばん大好きな映画監督の新作上映、初日。舞台挨拶あり。
舞台挨拶には、千原ジュニアさんも来られるとのことでした。
監督のデビュー作のことは、高校生の頃、雑誌の記事で知りました。
主演が千原ジュニアさん。
ビジュアルの画像を見た瞬間の興奮を今でも憶えています。
監督の名前を見ると、私が大変に影響を受けた「BLOOD BROTHER」の著者の方でした。
なんと素敵な物語なのだろう、と思いました。
監督の2作目と3作目は、大阪の映画館で観ることができました。
2作目のときも、初日の舞台挨拶も観に行き、監督の姿を初めて拝見したのでした。
4作目は、9人の脱走犯を描いた映画でした。
観終わったあと、それはもう大いに心が震わされた私がおりました。
その夜、私は監督に手紙を書いていました。
私を、現場に置いていただけませんでしょうか、と書いておりました。
とても大きな勘違いをしているような気がしつつも、鉛筆が止まりませんでした。
どこに送ればいいかわからなかったのですが、「BLOOD BROTHER」を取り出してきて、そこの出版社に電話をかけていました。
事情を説明すると、非常に快く対応してくださり、監督に渡していただけるとのお返事をいただきました。
翌週、本当に手紙を送らせてもらうかどうか、ずっと迷っていました。
ずっとその自己問答を繰り返していました。
自分だけの問題ではなく、ご迷惑をおかけしてしまうかもしれない人たちのこともちゃんと考えないといけなかったからです。
問答や相談を経て、金曜日の昼休みに手紙をポストに投函しました。
すると、その後、急にお腹が痛くなりました。
最初はそのうち治るんでないかと思って様子を見ておりましたが、腹痛は酷くなる一方でした。
明らかに異常な痛みではありましたが、夜も居酒屋で働いておりました。
ですが、途中で熱も出てきたので早退させてもらいました。
翌朝、病院に行ったら、急性虫垂炎で、すぐ手術、入院でした。
退院の日の午前、ショートメールを受信しました。
監督からでした。
「手紙読みました。10月○日、千原の復帰公演で大阪に行く。会場で会おう。」
と書かれていました。
当日、もういっぺん盲腸になるんちゃうかなという緊張で内臓を圧迫しながら、劇場に向かいました。
入り口の扉を開けて中に入らせていただくと、そこに監督と千原兄弟のおふたりが立っておられました。
「君が番頭くん?」
あの、BLOOD BROTHERの3ショットを、たぶん私は、死ぬ間際にも思い出すでしょう。
私の青春のヒーローたちがそこにおられました。
その日、千原ジュニアさんのバイク事故後初の単独ライブ(渡辺鐘さんと3人でのライブでした)となる「プロペラを止めた、僕の声を聞くために。」を監督といっしょに鑑賞させていただきました。
そして、監督にミナミでお好み焼きをご馳走になりました。
映画の現場に入りたければ、東京に来ないといけないとお話してくださいました。
私は、色々な人にご迷惑をおかけしながらも、年が明けたら東京に行くことにしました。
その話の顛末を書いておくと、私はそこから丸2年を東京でお世話になりました。
監督のもと、見習いとして、一生懸命動かせていただきました。
しかし、私の一生懸命などでは通用する世界ではありませんでした。
もちろん、そこから続けていき、成長していくべきことなのだと思います。
私自身が、それを諦めてしまったのだと、省みています。
あの2年は、現在の私の出発点です。
あの2年での経験が、失敗させていただいたことが、教えていただいたことが、それを省み続けることが、現在の私です。
あの2年のことを思い出すと、申し訳ない気持ちで一杯になります。
それでも、今でも、監督は私の大きな憧れです。
監督が、監督の映画が、私は大好きです。
クラファン期間残り【22日】。
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