可能性を開く安心の場所を作り出すこと~HFのキーパーソンは語る②小川芳範さん
vol. 2 2016-08-13 0
ハウジングファーストを東京で実現するためには、医療関係者、社会福祉関係者、不動産業者など様々な立場の人たちの連携が欠かせません。
一般社団法人つくろい東京ファンドが参加する「ハウジングファースト東京プロジェクト」は、都内でハウジングファーストを実現するために、6つの団体で構成しているコンソーシアムです。このプロジェクトのキーパーソンに、ハウジングファーストの理念やプロジェクトを進めていく上で大切にしていることをうかがいます。
第二弾は、NPO法人TENOHASIのソーシャルワーカー、小川芳範さん。哲学の研究者でもある小川さんの「生きづらさ」に関する考察は、障がいのある人を地域で支えていく上で欠かせない視点です。
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可能性を開く安心の場所を作り出すこと
小川芳範
1962年生まれ。精神保健福祉士。NPO法人TENOHASI生活応援班。
ブリティッシュ・コロンビア大学哲学科博士課程修了。Ph.D.(哲学)
支援の現場でお会いするのは、千差万別の人生を生きてこられた、それぞれに異なるユニークな個人ばかりです。
でも、そんなユニークなお一人お一人と話をしていて、「自分の現状はそうなるべくしてそうなった、言わば、必然の結果である」と口にされる方がことのほか多いことに驚かされます。
自分の来し方を振り返って、それは自分の力ではどうすることもできなかった、「定め」であったと考えるのは、一つには、だからそれでよかったのだという、自分の人生を肯定するための根拠をその考えが与えてくれるからなのかもしれません。
でも、それと同時に、各人の「しょうがない」の背景には、何をしたってどうにもならない、そんな絶望経験の繰り返し、言い換えるならば、「学習された無力感」が横たわっていることも稀ではありません。そして、その人にとって、そうした何によっても「どうにもならない」事どもは、しばしば、「どうしようもない自分」からの必然的帰結であるという確信をもって生きられています。
例えば、あの人は小さい頃から酷い目に会ってきたから、人を信用できないのだというようなことが言われます。でもそうだとすれば、他人を信じることはできないにしても、自分を信じることはできるはずです。ところが、それがまるで逆な場合があります。こんなダメな自分に付き合ってくれる人がこの世にいるはずがない。その人にとってはそれが絶対の真理なのです。だから、自分への不信が取り払われない限りは、どんなに誠実な相手だろうと信じることはできません。絶望の運命論は自尊感情、自己肯定感の低さあるいは欠如と表裏一体です。
最近、いろんな場面で「生きづらさ」という言葉を耳にしますが、これについて少なくとも二つのことを指摘できると思います。一つは、障がいの「スペクトラム(連続体)化」ということ。「障がい」、さらには、「病気」、「疾患」といった語は、しばしばそれによって語られる事態、より正確には、その原因と想定されるものを実体化し、生物学的基盤へと帰するような思考法を招き寄せます。
かくして、障がいは、あくまで、自分のうちに「それ」を内含するような特定個人(そしてその周囲の人々)にとっての「問題」であり、そうした不運な人たちは同情の対象でこそあれ、究極的には、「それ」をもたない健常者である自分は障がいとは無関係である、という意識をもたらします。
これに対して、「生きづらさ」とは、程度の違いはあるにせよ、誰しもが経験し抱えるものであり、病気の概念にともなう特殊化、差別化、絶縁化を無効とします。そこに、健常者と障がい者の区別、健常者と病者の区別はありません。「生きづらさ」を生きる人がただいるばかりです。
もう一つ、これと密接に関連することですが、「生きづらさ」はそれを生きる当事者の主観、内的経験と切り離すことができません。客観化、外在化された障がい(disorders)や疾病が専門家によって語られ、それを生きる当人の内面が置き去りにされることも多い医療・福祉の現場において、この点はきわめて大きな意義をもつと思います。
しかしながら、その一方で、支援に携わる者は、困っている人の生きづらさの軽減を図ろうとして、生きづらさ=除去されるべき問題(ないし欠陥)、という見方を取り、その結果、その人がもつ「強み」を見失い、旧来の悪しき問題中心型アプローチへと逆行する危険性に対してつねに自覚的でなければなりません。
第一に、生きづらさとは、それを生きる当人と、その人を取り巻く(人間関係を含む)環境との相互作用において生じるものであり、したがって、環境への考慮なしに理解することはできません。
第二に、そしてこちらがとても重要だと思うのですが、かりに生きづらさは、それを生きている当人に独特のものの見方・感じ方、行動パターン(すなわち、その人の「性格」ないし「人格」と呼べるようなもの)によって主にもたらされており、それを変えることが生きづらさの軽減には必要なのだとしましょう。
もしそうだとしても、そうした、生きづらさの原因となっている認知・行動パターンは、それがかつて果たした「強み」ないし「機能」において見られるべきです。性格や人格というものは、いくらかは生得的な因子に影響されるでしょうが、そこへ生まれてくることを自ら選んだわけでもない生育環境そして養育者との対人関係の中に放り込まれた、いまだ言葉さえ話せない幼児が、まさしく生き残りを賭けて採用してきた、言ってみれば「戦略」の総和なのです。自らに手に入る乏しい資源を使った、できるかぎりの環境への適応の試み。その集積が性格であり、人格であるのです。
したがって、その人の置かれた現在の環境において、それがうまく機能せず、生きづらさをもたらしているのだとしても、それは本人にとっては自らの生きてきた過去に裏打ちされた、かけがえのない大切なものなのであり、かつ唯一のオプションなのであることを、支援者はその個別性において理解すべきであり、敬意と評価をもって、その人の今ある姿を見つめるべきなのです。
そうしてみると、いわゆるトラブルの発生は、それまで頼ってきた適応プログラムの機能不全が表面化することなのであり、そのことの自覚へと本人を導く、千載一遇の機会であると捉えることができるはずです。何かを変えたい。変えなくてはならない。そう彼(彼女)は感じています。でも、だからと言って、どうしたら良いのか見当がつかない。「どうしようもない自分」という、絶対的な「真理」を前に、新しいやり方、別のやり方を思い描くことは不可能です。
何もかもがそうでしかありえないのならば、そうありうるかもしれないという可能性の数々はその人には存在しません。そして、ありうるかもしれない自分の未来が存在しないとすれば、未来に向けて行動が動機づけられることもないでしょう。つまり、変化は起こりえません。したがって、可能性の空間を開き、そうありうる未来の数々を思い描くお手伝いをすることが支援者にとっての一つの課題であると言えます。
ではどうしたらよいのでしょう? 可能性を閉ざす運命論の鎖を断ち切るには、自分への信用が必要不可欠です。そして、自分への信用をもたらすのは「自分はこんなことができる、あんなことができる」、そうした「自己効力感」の経験の繰り返しです。ゴミを分別して、決められた場所、曜日、時間に出す。近所のコンビニに立ち寄り、朝食用にパンを選ぶ。ふだん、一々口に出すことはなくとも、こんな日常の何気ない選択と行動の数々が私たちの「できる感」を構成し、自分への信用をもたらします。それらは自己の表現であるし、それらが集まって「私」があると言ってもいいでしょう。
ところで、そういう自己表現であるような行為にとって、なくてはならないもの、それは「安心」です。幼い日のことを思い出してください。後ろを振り返ると、こちらを向いて笑いかけてくれる誰かがいる。そんな「安全基地」があるから、もう一歩先へ、冒険してみたくなる。条件無しに、あるがままに受け入れてくれる人、場所があるとき、安心が生まれ、自由な行為が生まれます。自由な行為は自己効力感と自分への信用を、さらには可能性に開かれた未来を思い描くことを、そしてついには変化を生み出すはずです。私たちはそんな安心の場所を作り出すことを目指しています。