素直にー④
vol. 17 2019-11-15 0
悲観的になっているのでもなく。
今の、アートの「トレンド」とか、
それに対抗するようなcraft、工芸の熱量、
そういうのと自分の距離感というのは、はっきり感じつつ。
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なんというか、
わたしが追いかけて求め目指し憧れていたもの=「美術」「アート」或いは「工芸」
とひとくくりの、其処に含まれている要素すべてを指すわけではないということ、
それはなんとなく自覚ができた。
それで、今アートが、もしくは世界が抱えている問題に対して、ビエンナーレの会場にいる人たち同様に(たぶん、中枢にいるひとたちというのはきっとこういう熱量をもっているのだろうなあと。)熱く鋭く盛り上がることがわたしには出来ないのだなと。
③までは、そんなお話。
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展示会場の自分の作品の前にしゃがみこんで。
蓋はしていたけれどうすうす勘付いていたことが明るみにでた、という感じで、
どうしたものかなとじっくり考え込みたい気持ちではあるけれど、
悲観的になったり自虐的や自暴自棄というわけでも、
優柔不断におちいってるのともちょっと違って。
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わたしはどのあたりかというのが、やっぱりいまのカテゴライズの中ではどうも見当たらなさそうで。
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見当たらないなら見当たらないで、
なんというか、
それぞれのカテゴライズを島と喩えてみたい。
そこから動き回っている自分にむけていくつか線をひっぱって、
そんなことしてたら交点を見つけることなんかできないかな、と。
一つの点というよりも、交点が描いた輪郭(わっか?)みたいなものになるかもしれないけれど。
宇宙のてっぺんから観測してみたらどうかな…。
そんな状態です。
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ともかく、どこともいったん切り離してみよう。
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それは、とれかけの絆創膏を、一気にはがすときの、ちょっとした勇気に似て。
あっけないけど、その一瞬の痛みに身構えしてしまう感じ。
受け入れたらなんてことないこと。
その一歩手前にわたしはいます。
「もうちょっと待って、深呼吸しているところ、あと数秒・・・」
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ところで、
カンファレンスのなかで、「あ、いいなあそれ」というお話もあって。
そのお話にわたしは、ほっと胸なでおろしました。
それは、「アート」のとがりも、「工芸」の熱量もそれほどないけれど、すごくそのひとの生き方に沿ってて、語られるどの言葉も自然な。
彼女のお話に耳を傾けながら、素直に、素敵だなと思いました。
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継続をすることって、選択をしつづけていくこと。
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カンファレンスではここまで話をした以外に、
作家サイド
・自分が普段どのように作家活動をしているか。
・作家活動を展開させていくには。
・作家活動を続けるうえでの大変なこと。(制作場所の確保、作品を見せる事、売ること。)
・自分のアトリエに海外の作家を招いてレジデンスをしていること。
ビエンナーレサイド
・このようなビエンナーレを続けていくために必要なこと
・みんなで一致団結する事の大切さ(contemporary artに比べて、ceramics はじめとしたcraftは、助成や企業からの協賛を取るのが難しく、スタッフ確保も難しい、、、)
・維持だけでなく発展させていくための、作品のドネーションの意義
といった話題があがりました。
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そのなかでわたしがいいなとおもった、作家サイドからのお話があったので、
それを紹介したいのです。
(このなかの話題、また別のところでひっぱりだしてくるかもしれませんが、先に聴きたい方がいれば、コメントやメールに質問をください。)
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その女性は、ブラジルからきている作家さんでした。
彼女は町と田舎の両方に住む場所があって、その間を行き来しているということでした。
大学で教える時間もあるし、
自分のアトリエで、少人数の生徒にも陶芸を教えているという事でした。
自分のアトリエで自分の生徒と過ごす時間はお気に入りなのだと。
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そして、展示は自分の家ですることが多いといっていました。
ギャラリーで展示をすることもあるし、企画されることもあるけれど。
輸送費も移動費もかかる、作品にマージンも上乗せされるし、
アートにこなれた人、陶芸がすきなひとはきても、そうでないひとたちは来ない。
自分の住んでいる場所がすきだし、自分の家をギャラリーにして作品をみせるのがすき。
作品を伝えたいひとたちは、作品のために上品に設えられた場所に来ないことも多い。
だから、自分の居場所にみんなを招き入れて、地道に発表をしつつ、
ときどき大きな展示にも参加するのが、わたしらしい「サイズ」
といっていました。
陶芸は彼女の表現手段で、生き方だし、コミュニケーションツールで。
彼女が陶芸をすることで、彼女は彼女らしさを保つことが出来て、
そのうえで、社会、世界とのつながりも保てている。
世界の平和ってこういう波及のしかたで実現するのじゃないかなと感じました。
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わたしがこうして文字にしたためてしまうと、
なんだかとっても味気なくなってしまって残念なのですが。
じっくり訥々と、ひとつひとつの言葉もセンテンスも味わうように話す彼女の声は、
詩を吟じているようにきれいで。
自然体のうつくしさを目の当たりにしました。
なんだか、カンファレンスは、熱を帯びた演説的な話し方が多かったので。
ほっとした・・・。
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継続をする、て易しいことではない。
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彼女は、制作と、仕事と、展示と、いろんなひととのつながりを続ける中で、
彼女らしい継続のしかたをみつけてきたんだということ、話を聴いてわかりました。
それって、耐えしのぐ、というよりも、もっとやわらかいかんじ。
「そっか。ああ、…じゃあね、こっちにしてみようか。」というくらいの静かさ。
決断するというと重たくかんじるけれど、選択するというと、ちょっとしなやかさを感じる。
そういうほんのちょっとした、違い。
継続は彼女のなかで大切なことだけど辛いことではない。
ひとつひとつ、彼女らしい選択を続けていくことが、ものすごく自然なことのようでした。
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継続することは、【辛いこと】や【厳しい】こととも違って、
【忍耐力があるかどうか】とも、ちょっとちがう。
今そのときをどれだけ、自分らしく選択できるか。
結局、どれだけたのしめるかなのだろうかな、と思いました。
会場のなかでもとりわけ彼女は、軽やかな雰囲気でした。
ずっとほほえんでいて。(話のあとずっと彼女を観察していた。)
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ビエンナーレに選ばれて来ているということ、それは彼女にとって特別なことだし、幸せな事なのだろうなあというのがよくわかりました。
同時に、とても自然で必然なことだというのも。
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そのあとのこと。
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カンファレンスを終えて、
わたしはなぜここにいるのかなあと、
ビエンナーレの展示会場にもどり、自分の作品のまえにしばらくしゃがみこんでいました。
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カンファレンスの前半(②、③のようなお話)を聴いていたら、
自分が選ばれた意味ってなんなんだろうと、よくわからなくなってしまっていました。
場違いとさえ思っていたけれど、最後にブラジルの作家さんのお話をきいて、
それで自分の作品、「Be」に無性に会いたくなった。
(本当はすぐに会場を出て違う場所へいくはずだったけれど。)
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作品と同じくらいの背丈になって。向き合って。
しばらくなにも考えずにぼーっとしていました。
部屋の人工の光源より、窓から差し込む自然光のほうが強い時間帯。
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この作品をつくったときの、こうせずにはいられなかった自分の気持ちがよみがえりました。
「Be」をつくったときも、わたしはどこにいけばいいんだろうと悩んでいて。
どうしようもなく(他人様には見せられない)むしゃくしゃとした状態で、
土にあたりちらすように制作をしていました。
それでも土にふれていると、ぐちゃぐちゃだった気持ちは整えられて行った。
そのときの気持ちはプロセスとして刻まれていて、
かたちにもテクスチャーにも、色の現れ方にも全てそのままに出ていました。
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こうしていまここに在ること自体が、きっとそれは漠然と「いいこと」なんだと、
彼女の声を思い出し、「Be」を制作していた当時の自分を思い出しながらそう思いました。
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わたしが選んだことだから。
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「これで「いい」。そう思うことにする。」と、
まずひとつその場で、わたしは選択をしました。
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お金をかけてここにきていて、たくさんの応援ももらっていて、
何かかたちになる、わかりやすい結果を私自身求めていました。
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まさか、自分が作品を通して周囲に伝えたいと思っていたのとは全く違う話題ばかりがカンファレンスに上ってくるだなんて、思っていなかった。
まるで青天の霹靂。
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「おおぅ・・・。こういうものだったのか。(思っていたよりもわたしとは違うひとたちの集まりだったなあ。)」
(そういえばそうだったかもと、大学院2年の時参加したシドニーセラミクストリエンナーレを思い出しました。当時その熱量についていけたのは、24歳という若さと猪突猛進(盲信)さがあったからかもしれない…)
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ここまできたから、
わたしはその時点での自分が【自分の思っていたの】とは、どれくらいかズレたところにいるということが、よくわかりました。
作っていることそれ自体はずれていなくて、
その先。作品の置かれる場所、作品を繋ぐ場所、自分が行きたいところ
わたしの話していた言葉・・・。
ここまで選んできたつもりのもの、周りのムードにのせられていた部分も、たくさんだった。
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わたしにとって、【継続することは苦しいことも積極的に選んで耐え忍ぶこと】
というのがどこかで刷り込まれていた。(多分義務教育と競泳。)
というのも、ブラジルから来た彼女のお話で気がつくことができました。
「苦しさを好んで耐えることはよいことだ」
と、無意識のレベルで文字通り身についていたらしいです。わたし。
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嫌だな、とおもったこと、もちろんそれを選ぶのも悪いことではないんだけど、
「こっちがわたしらしいから」と嫌な方をけっても、
自分の選択なら、それは逃げてるわけじゃない。
ある地点からみたらそれは逃げているように見えても、
ある地点から見たらそれは向かってきているようにみえるのだから。
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堪えるより、痛みを逃がすほう、て、
そうだ~出産のときのあれだ~というのも。
自分の作品を見ながら彼女の言葉を反芻していたら思い出しました。
陣痛は赤ちゃんが自分から生まれて来ようとしているサイン、
こちらへ向かって運動しているということ。
ぐっとこらえないで、どんどん痛みを逃がすと、
産道は、文字通りあかちゃんにとっても通りやすい道になる。
最後、出てくるときだけそっといきむ。
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出産はわたしには経験する必要があった(身体にその感覚を叩き込む必要があった)のだ、
と思いだす度に感じます。
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少し話がそれますが、
それなしにでも、このことを知っている作家さんが、男女関係なく多いなあというのも、
最近よく感じる事。
そのたびに私は感動しています。
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自分で選択をしたつもりがなくても、
無意識に選んでいることもあるんだろうと思ったりもします。
必要があれば。
必然なことは。
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次回は、会場風景の写真を、たくさん並べてみたいと思います。
ビエンナーレでセレクトされたものだけでなく、ビエンナーレ主催の企画展の写真も掲載します。