素直にー③
vol. 16 2019-11-13 0
3Dプリンター。
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デザインでも、医療の現場でも、アートでも、3Dプリンターはもう当たり前の存在です。
陶芸も3Dプリンターで形が作れる、そんな時代です。
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10年前、わたしが教育実習にいったK高校の工芸の教室に、「紐づくりの紐をつくる機械」があったことを思い出しました。
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「紐状の粘土もろくにつくれない生徒がいるから、買ったんだよ。」・
と先生は言っていて。開いた口が、塞がらなかった。
でも今はそれ以上。すごいなあと、改めて技術の発達する速度の速さに感嘆するばかり。
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カンファレンスのなかで3Dプリンターがどう話題にのぼったか、
それは、コンセプトとはまた対極といってもいいと思うのですが、
造形面においての、問題というか、課題ということで・・・。
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3Dプリンターに負けない造形を。
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3Dプリンターで、どんな形でも作ることが可能になりつつあるなかで、
個人作家はそれにどう対抗していけるのか、
とってかわられずに済むのか。
陶芸がアートの世界に生き残るために、
更に発展するために、
陶芸にしかできない技術をわたしたち作り手がいかに、どこまで発展させることができるか。
まとめるとそういうお話です。
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3Dプリンタ。
わたしは気にしたこともなくて。
多分、日本の陶芸をしている作り手たちも、「んむ??」て思うのでは、、、
ないでしょうか、、、。
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もしかしたら、職人さんにとっては脅威かもしれない。
だけど、既に多量につくるための工場生産のラインがあってもなお、
人が作るものは、失われる気配はないとわたしは見ています。
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個人作家が、3Dプリンターの造形に、、、。
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思ったのは、アイディアが大切だと考えるとそうなるのかもしれない、ということ。
アイディアや、コンセプトが、制作の冒頭にある時。
それをいかに実現しようかというときには、3Dプリンターは脅威になり得るかもしれないです。
アイディアを細部まで緻密に設計図化できるなら、
それを再現する手段として機械は人よりも正確かもしれません。
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でも、
個人作家がつくるものというのは、プロダクト製品とはちがいます。
デザインされたものを大量生産するわけではなくて。
制作の現場で、ひとつひとつの小さな段階によりそうことができる。
それが個人制作の善さだと私は感じています。
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作り手個人の感覚が、最初に思い描いたイメージにすこしづつ修正をかけて、
さらによいかたちへ導くことができるのは、
人間だからできること、とわたしは思うのです。
すくなくとも、わたしはそうで…。
「あ、ここ、もう少しこうしたい。」と思ったら、その場で手が動きだして。
手と土の動きをみつめていると、
「ああ、いいのが見えてきた」と、自分が求めているものをその場で見つけられる。
目の前にみえてきたものが、自分が思い描いたイメージとはちがったり、違和感があれば
それに気が付いてよりよい方向へ導けるのが人間で。
きっと、そうしてると思うのです、個人作家は。
機械にそういう判断はできないと、わたしは思う。少なくともいまのところは。
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もしくは、土の状態が、作りたいものにたいして微妙にコンディデョンが悪ければ、
その微妙な土の状態をコントロールしてあげられるのも、
人間だと思う。
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機械がその全てを管理するのは無理だと、わたしは思います。
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土は生き物。人間と同じように、微妙な環境の変化を敏感に察知して、影響をうける。
自動的に安定しつづけることが出来るわけではなくて、不安定。
でもその不安定さが、わたしたち作り手にとっては、自由さになるのです。
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制作工程において、土が柔らかいあいだには、土は作り手のイメージの選択に「余地」をもたせてくれます。
その柔軟性が、陶芸の成形の工程のいいところ。
わたしはその陶芸の性格にとても、救われています。
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もし、3Dプリンターの機械それ自体に、
そうした人間のような可塑性のある思考能力があって、
人間のような感性、こころもあって、迷ったり悩んだりもできて。
それら全てをもって3Dプリンター自身が何もかもやりきるのであれば、、、。
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でも
仮に、成形の部分でそれが可能になったとして、
そのあとに、釉薬、焼成という、陶芸にしかないプロセスもある。
わたしたち人間がいなければ、機械それだけでコントロールはし得ないことばかり。
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一方、自分の作品の模倣を3Dプリンターがしてしまう、ということについては、
「いやだ」と思う作家はいると思います。
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わたしは、別にいいじゃないかなと思ってしまう。
いわゆる贋作というのと同じことだと思うけれど。・
わたしは、わたしがしたことのその全てを、機械が再現できると思えないから。(人であっても無理だとおもうけれど。)
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その時、瞬間。その制作に関わった自分は、そのかたちにしか宿ることはないし、
その焼成のときにしか消せない。
そのときに窯の中に残ったものにしか、
わたしの痕跡は残らない。
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消えてしまったものすら、作品には含まれているとわたしは思っていて。
見えないものとして存在しているものって(変な言い方だけど)、
見えないけれど、人には伝わるものとわたしは感じています。
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外側だけ真似ても、そこには【真似をしようとした痕跡】しか、残っていないと、わたしは思います。
なにより、私が見て感じていたことを、
3Dプリンターは見ることができていない。
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もし、わたしが制作しているどの瞬間もレコードできるとんでもない機械があって、
それと3Dプリンターが一体で、
窯につめるときも窯をあけるときも窯から出したときも、
わたしと一緒の感情をもって、そのかたちに触れることまで出来る機能まであるなら、
もしかしたら。もしかするかも。
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でも、レコードするということは、結局オリジナルがなければレコードできないのだし。
だからやっぱり、わたしは3Dプリンターは、気にならないかなあと思う。
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ただ、3Dプリンターだからできる造形があるなら、それにはとても興味があります。
人間には不可能な機械の表現として躍進してほしいと、素直にそう思います。
見て見たいと思う。
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それと、技術について。
わたしはこの話を聴きながら、
技術を伸ばすことそれ自体に自分はさほど興味をもっていないのだと気が付きました。
表現はしたい、陶芸で。
その中で、少しづつ、「自分の技術」的なモノが伸びていくことは期待しているのだろうと思います。
でも、
自分の技術を伸ばそう、陶芸だから出来る表現を、ということをわたしは目的にしたことがない。
…恐らく、土を目の前にしてるとき、火を前にしているとき、そんなこと全く考えていません。
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ビエンナーレの会場にいるひとは、「陶芸にしかできないこと」を重要視しているひとがほとんどでした。それがきっと、普通だし、自然なのだろうと思いました。陶芸家なら。
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それを聞いて、わたしも「やっぱりそこは大切なんだな。」と頭では思いつつも、
みんなが熱くなるほどには、わたしは熱くはなれないということも、よくわかりました。
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ひとつに、
私自身の実感がその課題に対しては何も湧かなかったということはあります。
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それともうひとつは、表現が技術を導き、わたしと素材の関係がわたしに必要な技術を導くと、
わたしは直感的にそう信じているから?
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技術が先に問題になること、
技術から表現を考えることもないし、
この表現をしたいから、どんな技術をつける必要があるかということを考えることにも、
あまり意識がむかないというのが
とても正直なところです。
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わたしは、
「あなたの作品は石ですか?/金属ですか?」
ときかれることがよくあります。
「わたしがしているのは、陶芸です。」と、
その質問に対しては簡単に答えることが出来ます。
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でも
「陶芸で制作してるということは、工芸ですか」
ときかれると、実は困ります。
「陶芸家ですか」と聞かれるのが、
一番困ります。
それは、ここまでかいてきたようなことが理由です。
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今回ビエンナーレで久々に、「陶芸家」ばかりのコミュニティーの中にはいって、わたしはなんだか、
居心地が悪かった。
わたしは、陶芸の発展に寄与したいとは考えていないらしいということ
工芸にしてもそう。
そのために何か努力したいとも思っていない自分。
話をきけばきくほど痛切に感じざるを得なかったから。
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胸を張って、自分のことをceramistとよべたり、artistだと言い切れる人たちが、
わたしはいいなぁとおもう。
でも同時に、自分は憧れてはいても、
そうはなれないらしいなぁと、感じました。
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わたしなんでここにいるんだろうか。
なんか違う気がしてきた。
と、思いつつ、
会場のなかにある自分の作品をカンファレンスのあとしばらく眺めていました。
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(次回へつづきます)