うれしかったこと。
vol. 2 2019-08-05 0
「当たり前ですけど、応援してるんで頑張ってください◎」
これは、ある会社の方がくださった言葉です。
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私は、このクラウドファンディング以外に、今協賛も得るための活動もしています。
正直、反応はあまりよくないです。
「アートに関係していないから」
「アートに興味がないので」
大抵、そんな感じで、やんわりと断られることのほうが多いです。
それがおそらく多くの人の反応だと思います。
で、これはわたしのプレゼンテーションも、よくないのだなあ、、、と思うのです。
クラウドファンディングの意識と、協賛の意識は、似ているようで全く違うものだということを、活動しながら感じています。
今日はそのことに触れたいと思います。
クラウドファンディングと協賛の違い
クラウドファンディングでは、私自身は特定の誰かの「利益」は考えていません、
返礼品はありますけれど、ここでこの記事を見たり、支援をしてくださる人というのは、
「わたしのプロジェクト」そのものに賛同・共感をしてくれている。
わたしの活動から派生して起こるかもしれない(!!)社会的にポジティブなムーブメント(予測しきれないこと)に期待をしてくれている。
のだと思うのです。
支援者のかたが主体的に意義、価値を見出してくれているのだなあと、いただいたメッセージなどから感じています。(本当にありがとうございます!)
なので
返礼品以外で返すことができることがあるとすれば、
それは例えば今回なら、
アーティストの方だと、
わたしの活動の結果、他のアーティストが活動できる場が広がるであるとか、活動しやすくなるとか。今回なら、ルーマニアとの交流展の企画をたてられるようになるとか、そういう成果をあげられるかもしれない、というところ。
そうでない人にとっては、
ルーマニアと日本の繋がりが今まで以上に強くなって、アート以外にも研究や、産業の親交が密になるきっかけをつくることができるとか、
わたしの考え方が広がることで、社会にほんの少しでも「良い」変化がおこるとか、
ささやかなことかもしれないのですが、そういうメリットがあることなのかなと。
一方、協賛となると、それぞれの企業にとって具体的にメリットにつながることを私から示すことが必要になってきます。
あるいは、
わたしが活動することで相乗的に特定の産業が活性化するであるとかでもいいのかもしれませんが、
とにかく、
わたしから
どのような方法で
どんなメリットを
そこが明確でなければなりません。
私の中のどの要素を活かせば、相手にとって有意義に機能するか、
そこを考えられるようになることって、大切なんだなと感じています。
自分から自然と湧いて出てくること、とはまた違うのですよね。
でもそれって、土と自分の関係(プロジェクト本文にもあります)に照らし合わせてみると、
そんなに難しくはないことなのかもしれないとも思うのです。
ここまでは、相手のことをそこまでよく知らないままに、協賛のお願いをしていました。
ここなら反応をもらえるかもしれない、という期待だけで。
やっていくなかで、
「なんだろうこのぼんやりなお願いは」
と自分でも感じるようになってきました。
「これは全く企業から見て魅力に感じられないものな気がして来た…」
「相手の事全く考えられてないな、私。
これって、油絵の具に自分の気持ちぶつけていたときにどちらかというと似ている、、、。
わ!だめだ!これはいけない!!!」
とある会社の方とのやりとりで気づいた事。
そう気づきつつ、先週土曜日、わたしはとある会社へ行きました。
その日も、私になにかできることあるのか、なにをすれば、その会社にとって「いいこと」が起こるかな、と思いつつ、やっぱりそれでもふわっとした考えのまま、
資料を渡しに行ったのです。
そこで、責任者の方がいらっしゃるまで時間があって、
会社の商品やパンフレットを見て待ちました。
手触りだとか、その会社でデザインを考えたプロダクトをみながら、
とにかく素材自体が魅力だな、と感じていました。
「素材」が大好きな私は、プロダクトの元になっているそれにとても興味がわきました。
責任者の方がいらして、資料をわたしつつ、
それに目を通しながら、
「なにか、うちの利益になるアイディアがあれば」
そう仰ってくださいました。
ハードルはかなり高いけれど、もしあるなら聞かせてもらいたいと。
その時点でわたしは具体的なことを思いつくことはできず、
相変わらずモゴモゴとしていたわけなのですが、
その方は、
「もしなにか浮かんだらメールをいただければ、名刺にアドレスが在るので」
とも仰って下さったのです。
気がついてもらえましたか?
「ハードルが高いから、無理だと思う。」
といわれてしまうのと、
「ハードルは高いけれど、なにか考えられることがあるのであれば聞きたい。」
といってもらえるのでは、全く受け取る印象が違うという事。
私のモチベーションはぐーーーんと上がりました。
わたしがその場で素材に触れて感覚したことは、その言葉でぐーーんと深くまで浸透しました。それは土と関わっているとき、土のことを理解する感覚と似たものでした。
これは、なにか思いつけるかもしれない、という希望が自分の中にふっと灯りました。
そして、帰り際
「当たり前ですけれど、応援しているので、頑張ってください◎」
と声をかけてくださったんです。
感動しました。涙がでてきそうになるのを、その場でぐっとこらえました。
え、普通だよ?と思われますか?
普通じゃないんです。
「当たり前」じゃない。全然「当たり前」じゃないんです。
ここまでそんな風に言ってくれた企業はありませんでした。
「応援してるので、頑張って」
相手にとっては、なんでもない、挨拶に近いものなのかもしれないです。
でも私が感動したのは、その方が、そうして応援するのが「当たり前」だといってくれたこと。一個人の、アーティストの活動を応援することが、その人にとっては自然なことだと伝えてくれた、そこなんです。
私には、アートに関係のない、恐らく普段から興味をもって携わっているわけではない方に、「頑張って」と目の前で、笑顔と一緒にそういってもらえることは、
文字通り「有り難い」ことで。貴重なことです。
だから、ここにきて、心温かくこうして私を見守ってくださるみなさんも、
ものすごく貴重なのです。
ものすごく、「有り難い」存在です。
それほど、個人のアーティストが、「応援をもらう」ことは容易なことではなく、
だからこそ
「応援してる」「頑張って」という言葉が、こんなにありがたいものだと実感できている今。
頑張らせてもらえている、と感じています。前を向こう!
て思える。
応援からもらえるエネルギーって、それくらい大きい。
そして、私に足りないこと。
一方、ここまでで協賛をお願いした時に、よいリアクションがもらえていないことについて。
私自身に原因があるなあと感じました。
・私のプレゼンテーションの能力が低いこと。
・自分から自然発生的に起こる「やりたい事」と、社会に対する「自分の有意義な機能の仕方」がまだきちんと自分自身で考察しきれていないこと。
が大きな要因だなと。
協賛のお願いを通して、目の前で見る相手のリアクションから、そう感じています。
アートに興味がない、はずがないと思うんですね。
アートは人間の営みそのものだから。
誰の中にでもある感覚が突然変異のように露出してかたちになってしまっている、て、
いろんな場面で見かけると思うんですが、
そのなかのひとつに、「アーティスト」というのがいて。
つまり誰でも繋がることはできると思うんです。
共感しうるもの。(empathyのほう。)
ただとても抽象的な存在なのだと思います、それというのは。
非日常というか。
わたしたちからすれば生産活動ですけれど、恐らく世間の感覚からしたら非生産的で。
その場に対して、
アートを
どうやって
具体的に
日常に
機能させられるか
アーティストは伝えていく必要がある。
そこから始めないといけないのは、
もしかしたらここが日本だからかもしれないという側面にもきちんと目を向けて。
学校の美術教育って、現実とはかなり乖離しています。
習うものだし、「主要」以外のものなので、適当に扱う人が多い。
そのくせ、評価がつくので、すきになれない人も多い。
アート作品に関しては、教科書では目にする。
作品は、いわれるから作るけど、自発的なものではなく。
美術館という特別非日常な場所にまでわざわざ足を運ばなければ関わる機会のないもの。
となれば、まず受け取ってもらえる意識のベースがないのです。
それはもう、そういう環境ができあがってしまっているので、
そうだということを私は受け止めるしかない。
そういう環境が事実社会にはあるうえで、
「わからない」って相手がおもっているのに、
「いやわかるから心開いて!」
と相手が壁をつくろうとしているところをこじ開けることは、あまりにも暴力的なわけで。
ともかく、その現実、事実を受け止めたうえで、
「じゃあわたしたちアーティスト側から見えている景色をつたえるためにどうするか」
ってとても重要なのだなと。
わたしたちアーティストには、たとえ具体的にはないとしても、
社会にコネクトしていくアートの姿、自分の作品の姿が見えるはず、
こうあればいいな、
がイメージできるのがアーティストなのだと思うのです。
その、「こうあればいいな」と、社会、
今回でいえば各会社の目指すところをいかに繋ぐかなんですよね。
すごくすごくすごく、想像力がいるけれど。
でも全部を説明できなくてもいいのだとも思います。
作品が、鑑賞者の感覚を覚醒させる装置、間口、糸口として機能するように、
そういうアイディアを出せることが大切で、
それが相手との対話の「場」として機能するように、
自分の思考環境を整えるのは、多分制作を感覚とすごく近いと思うんです。
自分がしたいことから、自分だから機能を果たせるところ、
その間をグラデーションになるように洗い出さないといけなくて、
そして「自分語」から誰にでも伝わる「共通言語」に翻訳もしていかないといけない。
(とくにわたしは、安井専用の翻訳機が必要といわれてきているので、余計に。)
いまさらながらですが、切実にそう思います。
クラウドファンディングと合わせて、今回協賛を行ったからこそ見えてきたことなのですね。
ここまでわかってきても、
これは理論(にもなっていないかも)で、実践はこれから。
今回すぐに、私自身の成果としてなにかかたちになるかどうかはさておいて、
「アイディアが浮かんだらメールしてください」
と、わたしが機能できるきっかけを作ってくれたその方の厚意に応えてみたいと思っています。
ハードルがどれだけ高いかは、跳んでみなくちゃわからない。
あとどれくらい届いていないか、
動かないと具体的に理解できない。
引き続き、動いてみます!
みなさんの応援に本当に感謝しています!