ミニコラム② 西日本を中心に定着した朝鮮人陶工たち
vol. 4 2023-02-08 0
こんにちは。
スモモクラウドファンディング担当です。
本作品に関連する、薩摩焼や、日本の陶芸文化、歴史についての基礎知識を配信していくミニコラムの第2回です。
今回は、秀吉による朝鮮出兵の際に連行されて西日本を中心に定着した朝鮮人陶工たちのその後について。
各藩の大名たちが連れ帰った朝鮮陶工たちが、やきもの文化を発展させることとなったということは前回お伝えしましたが、では実際にどのようなやきものが今に至るまで続いてきているのかについて一部ですが見ていきたいと思います。
<萩焼>
朝鮮出兵(慶長の役)の際、長州藩の藩主・毛利輝元に連れてこられた朝鮮人陶工・李勺光(り しゃっこう)とその弟の李敬(り けい)が、現在では茶陶として有名な萩焼を創始しました。
その後、初代の李勺光の子孫、山村家につながる坂倉新兵衛窯と、李敬を初代とする坂高麗左衛門窯、という二つの流れに分かれながらも、それぞれ萩焼の宗家として、現在に至るまで伝統を受け継いでいます。
※毛利家は、みな茶人として素養が深かったことも萩焼の発展に関係したとも言われています。
<有田焼(伊万里焼)>
多くの方が聞き馴染みもあるのではないかと思う有田焼(伊万里焼)は、肥前佐賀藩の藩祖・鍋島直茂が連れ帰った陶工の1人であった、李参平(初代・金ヶ江三兵衛)が有田焼の「陶祖」です。
1610年代初頭に有田の泉山で白磁石を発見したとされており、その後白川の地に天狗谷窯を開き、そこで日本初となる白磁を焼き、1616年に直茂公に「磁器」を献上したことによって、有田焼が創業、となりました。
現在も、直系の子孫が作陶活動などを行い、14代まで続いています。
この他にも福岡の上野(あがの)焼の上野尊楷、高取焼の高取八山などの朝鮮人陶工たちが九州・山口地方の各地に定着して現在に至っています。
次回は、本作の中心になる「薩摩焼」についてもう少し掘り下げてみたいと思います。
(次回もお楽しみに!)
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