映画制作の知識もないままに、とにかく作ると決めたのです。
vol. 2 2024-06-08 0
写真のキャプション;エレファント・ネーチャーパークのトンイーさん、僕を見つけると挨拶してくれます。
昨日に続きです。
映画制作の知識もないままに、とにかく作ると決めたのです。その前に奥野のことをもう少し説明したほうがいいですね。
奥野は大学受験を前に立ち寄った大阪市立美術館で開催していた報道カメラマンのロバートキャパの写真展に大いに触発されたんです。その時、僕はやりたいことはこれだと感じたんです。写真家になろうと。
そこから写真の東京総合写真専門学校に入学、長くなるので学生時代の話は割愛しますが、写真学生時代に写真家の本橋成一氏に師事するんです。ドキュメンタリーの気鋭写真家です。でも、お互いに若かったです。奥野が19歳、師匠が39歳でした。時間があると師匠の事務所で暗室作業をしていたですね。当時はモノクロ写真がまだまだ使われていました。今から45年も前の話です。師匠は写真の技術は教えてくれませんでしたが社会の見方は教えてくれました。あと、多くのプロフェッショナルで活躍する人たちを紹介してくれました。
19歳から27歳まで本橋成一氏のアシスタントとして働きました。僕のドキュメンタリー制作の土台をこの時に培ったと言えます。
その間に師匠の紹介で語学と広告の写真技術を学びにカナダに1年間留学しました。他には9ヶ月間韓国にも滞在して語学と自分の写真のテーマを探しにソウルオリンピック前の激動する韓国を姿を撮影していました。
その後、奥野は正式に独立して韓国の若者を撮った「チョルムニ」早川書房(共著)、南アフリカを撮影した初の本格的な写真集「ウブントゥ」第三書館、パラリンピック物語」リトルモア(共著)、パラリンピックアスリートの写真集「ボディ」リトルモア、阪神大震災を撮影した「瓦礫の風貌」リトルモア、「てつびん物語」偕成社(共著)。などの作品を発表しました。
フリーランスのカメラマンとして活動していました。
転機は2004年にやって来ました。
続きは明日に。
奥野安彦