なにでもない場所
vol. 3 2014-04-01 0
このプロジェクトについて、何人かから、「見たけれど、何なのかよくわからなかった」といわれました。理由を考えていて、もしかしたらこの「村」についてのいわゆるヴィジョンが見えないせいなのかなと思いました。今は何かをするときに必ず、ヴィジョン、コンセプト、ゴールといったものを持てと言われます。しかし「共育学舎」では、ずっとそれなしに人を受け入れてきました。
自分たちのすることは明確ですが、来る人については、「こういうことをめざしている場所だから、こういう人に来てほしい」というものはなく、来たいといったら、なるべくただ受け入れてきました。(個人だからもちろん種々の限界はありますが。)
明確な意志やヴィジョンを持ってくる人。それがない、あるいは失っている状態の人。
それぞれが、それぞれなりの時間をすごし、何かを思い、また旅立っていきます。
たぶん、こちらがヴィジョンを打ち出していたら、そうはなっていなかっただろうと思います。
職場でも学校でも研修施設でも収容施設でもなく(さらにいえば宗教団体でもなく)、ただで受け入れてくれる実家以外の場所、というのは世の中にあまりないように思います。
自給農業を基盤に生活している中に受け入れるので、日々の作業は必然的に農作業が多くなりますが、農業の研修施設というわけでもありません。
「共育学舎」というのは、そういう「なにでもない場所」なのです。
「なにでもない場所」だけど、土の上で、体と頭を動かす環境があります。
何かを求められることのない場所で、土の上で体を動かしているだけで、ほとんどの人が、そのうち自分らしさ、自分の答え、自分の道を見出すように思います。
私たちは、過疎の田舎の一隅で、来る人を何年も受け入れながら、そういう場所の必要性をずっとひしひしと感じてきました。
この、「村をつくる」プロジェクトは、そうした「なにでもない場所」のスペースを、この世の中にもう少し増やそうという試みです。研修施設の建設でもないし、ただの移住支援ともちがいます。
どんな人がどんなふうにでも利用できる、田舎の土の上の、とある場所。
滞在する場所があり、その気があったら自分で家を建てて住むこともでき、畑をしようと思ったら畑ができ、遊ぼうと思ったら遊んでいける。相談したり、協力したり、学びあったりすることのできる人間もいる。そういう、今の社会の中にある何かには例えられない「場所」。
わかりやすくはないかもしれませんが、これができる精一杯の説明です。
彼岸頃にまいた、おかえしにお送りする野菜に入れるであろう春大根の芽がでてきました。
(文責 三枝由紀)