監督日誌14日目(今回は全体公開にしました)
vol. 51 2021-12-18 0
先日、30歳になりました。
なんだか感無量だったので、まとめておこうと思いました。
また長くなります。
10代から20代になるのはなんだかまだまだ若くて、フワフワしたまま生意気にちゃちゃっとした成人の迎えだった。
でもそこからここまでは、歩いてきたとは思えない道だった。
21歳で、卒業後の人生を考えたら、自信なんか何にもないことに気がついてしまって、すごく焦った。
22歳になって、気がついたら心をぶっ壊していた。
通学も、就職もできないし、そもそもご飯を食べたり眠ったり、話すこと、
生きることの基本的なことも全部難しくなってしまって、自分に絶望した。
あの頃の私は「未来にいいことがあるよ、と言われたとしても、今日、今がしんどくて、そこまでは歩けない」と言って泣いた。
でもすごく好きな人に出会って、その人に、生きて欲しいと願ったことや、生きるのを諦めていた私の命を諦めなかった家族のことを見ていて、こいつらの戦いを、私、見てたって言いのこさねばと思って、最後のエネルギーを使うつもりで映画を作った。
「還るばしょ」「空(カラ)の味」
この子(作品)たちと、私を生かしてくれた人、仲間たち、それが今の私の原点を肯定してくれた。本当にありがとう。
その子(作品)が、私を沢山、色んなところに連れて行ってくれた。
20代半ばになっていた。
それでも、30歳までなんか生きれる事、考えられなかった。
誕生日なんて大嫌いだった。
どうやって生きたらいいか分からないし、それを見つける体力は無いと思った。
作品との旅が終わったら、どうしようかと思っていた。
でもその子(作品)との旅の中で、また言い残さないとって思う出会いがあって、
25歳、また映画を撮ることにした。「刻」
「刻」を10年かけて作りたいと思った。
私が毎日毎日しんどいと思ったあの時間たち、長くてかいつまんだら省かれるような毎日を、否定したく無いと思った私だったから、本当の時間をかけてここまでの10年の話を撮ろうと思った。
10年かけるなら、仲間もすごく大事に探したいと思った。
26歳、映像のワークショップを長野で子どもたち対象に行うことにした。
27歳、子どもたちと沢山出会って、好きな気持ちが沢山あって、一緒に撮ってもらおう、と決意した。
28歳、コロナで撮影が延期した。
「刻」と生きる、って決めたけど、ふらふらした生活も、自分に絶望してから決定的に愛せなくなってしまった自身のことも、解決できなくて生きていかれるかな、って不安はずっと持っていた。
コロナで撮影が延期しながら、その不安と生きていくことがしんどくて、でも「刻」が撮れなかったらもう本当に生きている意味が無くなっちゃう、と思って焦っていた。
29歳、子どもたちを諦めたくない、と思って「刻」を撮り始めた。
この1年、毎シーズン撮影があって、子どもたちと定期的に会えるようになって、沢山話せて、いよいよ一緒に生きはじめた。
この1年、あの子たちの一個一個の戦いを沢山見せてもらった。
撮影も、演技もそうだけれど、
普段の学校のこと、恋愛のこと、家族のこと、好きなもののこと、アイデンティティのこと、
母でもなく、でも少し年上のふらふらした謎の存在の私に、
あの子たちは沢山話をしてくれた。たくさんの戦いを見せてくれた。
爆裂楽しかった。毎日心がいっぱいで、あっという間だった。
しんどいと思っていたはずなのに、思いかえすと、この1年は、生きるのをやめようと思ったことはなかった。
30歳になった。誕生日の日、
子どもたちとスタッフが一緒に作ってくれた誕生日ムービーが届いた。びっくりした〜!
今年一番泣いて笑った映像作品だったかも。笑
29歳の歳、一緒に過ごしてきて、ああ思ったより大好きになってる、もう客観視なんかできないね、そうなんだと思った。
笑った。泣いた。子どもたち、スタッフ、ありがとうございます。
生きてきてよかった。
しんどくても、死にたくても、ここまで連れてきてくれた作品たちにまず、本当にありがとうと思った。
20代の前半に、「今日から先がもう歩けない」と言った私に今会えるなら「ここまで連れてきてお願い」って泣いて話したと思う。
ここまできてくれ。ここまできて、私は
生きててよかった、って思ってる。
・・・
子どもたち、出会うまで、ここまでこれて本当に良かったと思えたここ。
ありがとう。
(子どもたち一人一人をここまで生かしてくれたご両親やご家族、ご友人や、環境に、本当に感謝しています。)
・・・
それから。
27歳の頃に、飲み屋でバイトをするようになって、
学校しか友達ってできなかったけど、映画以外、歳も、人生も全然違うような友達ができた。
大人になっても友達ってできるんだ、と思った。
ほとんど、映画以外の私しか知らない人たち、
映画を魂にして生きてきたけれど、それ以外の私もいるっていうのを感じてた、そこでできた友達の子。
映画の話も、周囲の人間関係も違うけど、年齢や、女性や、仕事、家族、価値観や人生のこと、沢山話してきた。
その子を見ていて、人生って美しいな、って思えて、たくさんの人に流れるそこにただただある人生を、愛おしく思った。
30歳になった日、そいつがめちゃくちゃ大きな花束を持って私のところにきた。ちっちゃい体でどでかい花束を持ってくるそいつ、めちゃくちゃかっこよかった。
「産まれてくれてありがとう」って言われた。
映画以外の私も、許してくれる大きな花束だった。
・・
それから、20代、
姪っ子と、甥っ子が生きてきたこと。
これも未来の光だった。
・・
子どもたち、君たちは美しいです。
光です。
・・・
お母さん、お父さん、
産んでくれてありがとう。
私の命を諦めないでくれてありがとう。
ここまでこれて、よかった。
人生、美しかった。
・・
生きるのを絶対愛させた2021、29歳、
30歳、来れた、私。
30代。あの子たちと生きることは微塵も揺るがず自信がある。だから映画は撮るだろう。この子(刻)と生きていく。
傍ら、映画以外の私のことを苦しくて焦ってしまう。こんなんで生きている自分を、年齢を恥ずかしく思ってる。30代の目標は、映画を魂にしている、でもそれじゃない私も愛せるようになったらいいな、
その私と、映画と一緒に生きていけたらいいな。
・・
死にたかった20代。お金も生活も自信も体もめちゃくちゃだったけど、
それでも私は私の20代を愛している。
一緒に生きていこうね、私の光たち。
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余談ですが。
秋に子どもたちと撮影していた短編映画ですが、先日一応編集を終えました。
素晴らしいです。美しい子です。あの子(作品)の母になれて、本当によかった。