制作を振り返る vol.1
vol. 4 2025-12-22 0
監督布山のスマートフォンから、画角共有用に撮影した写真を発見したので公開します!
↑このショットはカメラ位置の候補が3つありました。どれが採用されたかは予告編で確認できます!『カンナ岬の虚ろ』予告篇
以上です。
どこにカメラを置くかは基本的に話して相談していたので、特別な理由がない限り写真は撮りませんでした。なので数は少ないです。事前準備が必要なショットに関しては、綿密に話し合いをしていたので、現場に入ると同時に各部ヨーイ、ドン!で行動することが出来ました。優秀なスタッフの皆んなに感謝。絵コンテも事前説明の補足として用意したのみで、ほとんど描いておりません。正直あまり描きたいと思わないのです。なぜなら、複雑な画角は書くのが難しい(ほぼ描けない)。となると、絵に描きやすい画角しか撮れないという悲しい結果になります。「絵コンテだとこうなっているが、本当はこうしたいんだ!」では描く意味が危うくなりますし、絵では上手く描けたとしてもその通り撮れるかというとそうではない。(現にヒッチコックだって絵コンテと全く違う!)個人的な意見です。広告映像だと話は変わってきますし、映画でもVFXが予定されていて、撮影時にフレーム内の要素が出揃わない場合は描いた方が良さそうです。私は頭の中にある理想の画を文字にすることで脚本としています。なので脚本には、人物が画面のどこからフレームインするかや、カメラの動きも書いています。脚本が完成した時点で、私の頭の中で一度、映画が完成しているとも言えます。それを技術部に提案するという流れでした。実現可能かどうか等々でふるいにかけられ、残ったものを準備し、それ以外は変更です。現場に入ると、準備したものとその場を見てどうするのが最も良いか考えます。こうした方が良いという別案が出てきたら、当初の理想よりも別案を取るようにしていました。机に向かっている時に考える事よりも、現場で考える事の方が、信用できると思っています。更に編集に入ると、脚本(当初理想としていたもの)、撮影の時に想定していた思惑はどちらも全て取り去って、手元にある素材を見渡して何が最も良いか考えます。脚本、撮影、編集の其々で私の頭の中は全く違うと言って良いと思います。カメラで撮るという行為には必ず偶然が入り込みます。こう撮りたかったけど、そうならなかった。あるいは、想定していなかったけど偶然にもとんでもなく面白いものが撮れた。これらについて見て見ぬふりをすると、残念な作品が出来上がります。其々のステップで柔軟に最も良い選択を探りたいと思っています。
今ではCGで後から何とでも修正出来るようになり、撮影機材の性能も向上してリアルタイムでの素材確認は当たり前です。撮影そのものもよく使う表現はプリセット化されており、頼めばすぐに用意できる。その為、机で生まれた当初の理想を最後まで突き通す事の難易度は大分下がっているように思います。理想かつ革新的なビジョンをカメラの前で引き起こす段取りと工夫の能力や、それでも理想通りにならないような不測の事態を打開する突発的なアイデア力、素材を凝視し編集室で路線を変更できる柔軟さ、こういった本来映画監督に求められていた力はあまり必要とされなくなったと思います。AIが考えることの方が面白いとなったら、いよいよ監督(商業監督)などいらなくなりそうです。となればこそ、思い通りにならない制約を抱え、人間が生み出す事自体に意味のある“自主映画”というものの価値が再確認できそうです。商業映画と自主映画を分断する意図はないのです(小津も溝口も黒澤も当時は商業映画の人間である)。今現在の状況を鑑みて、これからも映画を撮り続けたい私がどちらへ向いて歩けば良いか、そういう話です。まだまだ学び足りておりませんが、『カンナ岬の虚ろ』のショットには、私のこれまでの学びが反映されていると思われます。映画を沢山見てこられている方は「おや?」と思うものもあるのではないでしょうか。
そんなことで、話は変に逸れた方向へ行きましたが、本作のショットについての振り返りでした。
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