山をおりる・春口滉平さんにたんぽぽの家でのトライアルレポートを書いて頂きました!
vol. 10 2021-05-01 0
鑑賞することが、日常の選択肢の中に入ってきてほしい
—自由な「鑑賞する身体」のためのTHEATRE for ALL LABの実践
文・春口滉平(編集者、山をおりる)
写真・衣笠名津美
すこしだけ春の気配を感じられるようになった2月末、ぼくは奈良県の福祉施設「たんぽぽの家」にあるコミュニティ・アートセンター「HANA」を訪れた。建築家で「THEATRE for ALL LAB」のコミュニティディレクターを務めている山川陸さんに、プロジェクトのレポートを書いてほしいと依頼されたからだ。
「THEATRE for ALL」は、演劇やダンス、映画、メディア芸術などの、字幕や音声ガイド、手話通訳、多言語翻訳などアクセシビリティに特化した動画を配信しているオンライン劇場である。そのTHEATRE for ALLが運営しているリサーチと実践のための活動が「THEATRE for ALL LAB」だ。
設置した機材のチェックをする山川さん
アクセシブルな鑑賞環境
THEATRE for ALLが掲げている「アクセシビリティ」ということばについて、ウィキペディアを見てみると次のように書かれている。
アクセシビリティ(英: accessibility)とは、近づきやすさやアクセスのしやすさのことであり、利用しやすさ、交通の便などの意味を含む。国立国語研究所「外来語」委員会は日本語への言い換えとして「利用しやすさ」を提案している。[「アクセシビリティ」『ウィキペディア日本語版』、最終閲覧:2021年3月26日]
THEATRE for ALLが「アクセシビリティ」というとき、それは演劇などの作品へのアクセスのしやすさ、スマートフォンなどデジタルデバイスを用いた鑑賞の利用しやすさを指している。
字幕や音声ガイドによってアクセシビリティが高められたTHEATRE for ALLの配信映像は、ぼくたちが普段から操作しているスマートフォンやタブレットの画面に映し出され、とても身近で利用しやすいものになった。他方で、これまでは劇場の客席から舞台を眺めていた演劇作品、あるいは映画館の客席からスクリーンを眺めていた映画作品は、それぞれの客席に居合わせた「みんな」で鑑賞していたものだったわけだけれど、スマートフォンの画面で鑑賞しているのは「ぼく」ひとりだ。ぼくにとってのTHEATRE for ALLの劇場は、自宅のソファであり、電車のなかであり、公園の芝生の上でもある。THEATRE for ALLで作品を鑑賞する人の数だけ、その鑑賞環境は異なるかもしれない。
こうした状況に対して、オンラインの視聴環境を各地に届け、そのニーズのリサーチをとおして、さまざまなクリエイターとともにより良い鑑賞環境の構築を模索するためにTHEATRE for ALL LABがはじめたプロジェクトが「劇場をつくるラボ」だ。
「劇場をつくるラボ」
「劇場をつくるラボ」は、ディレクターの山川さんのほか、ゲストクリエイターに建築家の板坂留五さん、セノグラファーの渡辺瑞帆さん、美術家・音楽家の梅原徹さんが参加し、パートナーとして協力しているたんぽぽの家のHANAでトライアルがおこなわれていた。トライアルは約2週間実施され、訪れた日はちょうどその中日にあたる。中長期のトライアルを経て、そのフィードバックを今後の展開に活用することが目的だった。
HANAにいる人たちは各々が自由に過ごしている。HANAには障害のある人たちが個性をいかしながらビジュアルアーツやパフォーミングアーツに取り組むスタジオがあり、訪れた日も多くの人が活動していた(新型コロナウイルスへの対策は万全を期していることを念のため付言しておく)。決められた作業、決められた場所があるわけではなく、各々が見つけたさまざまな場所(広間やスタジオ、テレビの前に置かれたソファなど)で、各々の作業をおこなっている。こうした自由な場所で、人びとが自由に鑑賞する劇場とは、どのようなものなのだろう。
山川さんは「鑑賞することが、日常の選択肢の中に入ってきてほしい」といっていた。通りすがりに見たり、なんとなく遠くから眺めたり、あるいはひとりでゆっくり鑑賞したり──こうした環境を用意するため、HANAにはいくつかの仕掛けがプロジェクトメンバーによって用意されていた。
1)個人視聴ブース
部屋の片隅に、薄い布が垂れたかわいらしいテントが設置されていた。天蓋の部分にはTHEATRE for ALLのロゴがあり、中にはタブレット端末と、首にまいた状態で使用するネックスピーカーが置かれている。HANAの施設内は見通しがよく、つねに人が行き来しているため、なかなかひとりになれる場所がない。このブースは、そうした福祉施設の中でひとりで観劇するための場所として設けられている。
個人視聴ブースは施設内に2か所設置されていた
2)特殊なスピーカー
映像の視聴は、音を聴く環境も重要になる。ヘッドホンのような音響機器は鑑賞に没入するのに適しているが、日常とは異なる環境になる。そこでより日常に近い状況のまま音を聴くことができるように、耳を塞がない特殊なスピーカーが用意されていた。ネックピロー型のスピーカーや、細長い円柱状のクッションの両端にスピーカーを造作したものなどだ。よりくつろいだ状態で鑑賞することができる。
ネックピロー型スピーカーのテスト
3)床打ちプロジェクション
HANAの施設の中央部は大きな吹き抜けになっていて、2階からも見下ろすことができる。この吹き抜けを利用して、1階の床に白いシートを貼り、上からプロジェクションすることで、床をスクリーンに仕立てていた。シートは養生用の簡易なものだったので、スクリーンの上を歩くこともできた。
プロジェクションする映像作品は、遠くからも視認しやすいように線画を用いた作品が選ばれた
これらの仕掛けは、どれもかんたんに手に入れることができる既製品を組み合わせてつくられていた。テントは市販の物干し用ポールから布を垂らしているだけだし、クッション型スピーカーもクションの中身をくり抜き、既製品のスピーカーを埋め込んだだけだ。「劇場をつくるラボ」での取り組みをブラッシュアップしてパッケージ化し、さまざまな場所へ展開することを見込んで制作したのだと、山川さんはいう。
作品に出会う
HANAの人たちを見ていると、ほんとうに自由だなと感じる。スタジオで自分の作業に没頭する人もいれば、何時間もかけて昼食を食べている人もいる。ボーっとしている人もいるし、ぼくらに話しかけてくれる人もいる。そんな環境のなかに観劇装置が用意されている。彼らはこのなかで、どうやって作品に出会うのだろうか。
まず、個人視聴ブースを使う人は、ぼくが見ていた限りでは現れなかった。たんぽぽの家のスタッフによると、設置期間中ときおり興味を持つ人はいたものの、布がまとわり付く感じや囲われた状況を嫌がる素振りを見せるらしい。ひとりで鑑賞する空間といえど、もうすこしゆとりをつくる必要があったのかもしれない。
ネックピロー型のスピーカーも、一見するとそれが何なのかがわかりにくいからか、なかなか利用されなかった。使い方を説明したうえでHANAのメンバーに試してみてもらったところ、周囲の環境音を阻害することなく音が聞こえるので、高評価のようだった。ただし、本人が興味のある映像の音に限られる。まずどのように興味を持ってもらうかという初歩段階の課題が見えたような気がする。
そんななか、床打ちプロジェクションには多くの反応があった。はじめこそ、そこで起きていることに気づく人も少なかったが、明らかに普段と異なる環境が生まれているためか、徐々に床を見る人が増えはじめた。大きな吹き抜けの下にプロジェクションされていたため、まずは2階から下を覗く人がちらほら現れはじめる。
つづいて、プロジェクションされた部屋を通り過ぎる人の何人かが、足元を気にするようになった。床に線が現れ動くことに興味を持ったのかもしれない。すると、そばに座っていたHANAメンバーのひとりが、プロジェクションされた床に近づき、アニメーションの動きに合わせてダンスのような動きをはじめたのだ。
アニメーションのキャラクターの動きを真似するような動きも見られた
足元を見る、歩く、線が動く、線を避ける、線が動く、線を踏む。わずか数分のできごとだったのかもしれないけれど、人が作品に出会うその瞬間に立ち会えたような気がして、そのときの感動をいまでもすぐ思い出すことができる。
こうした出会いを生み出すことができた理由はさまざまに考えられる。普段とは異なる環境をつくっていたこともあるだろうし、上からプロジェクターで投影しているため、自身の影が床に映ることも楽しかったのかもしれない。単純に興味を引くアニメーションだったのかもしれないし、通常は垂直に立ち上がった壁面やディスプレイに映るはずの映像が床にあるだけでも効果があったのだとも考えられる。ひとつぼくが確実だと思っている理由は、鑑賞者と作品の近さだ。床に大きく映像作品が映し出され、その上に実際に立ち、映像の動きに合わせて自身も動く。この作品との物理的な近さが、彼女と作品を出会わせた大きな要因だっただろう。
「みんな」で観る
この日のトライアルの終盤、当日HANAにいたメンバーのみんなでひとつの映像を鑑賞した。作品は「ぼくがうまれた日」。これはHANAの演劇プログラムの一環として創作された演劇作品で、HANAメンバーと、数年前に亡くなったメンバーのエピソードをつなぎ合わせたストーリーになっていて、HANAメンバー自身が出演している。出演メンバーの多くはこの日も演劇の稽古のため不在だったが、自身にも関係のある作品ということもあって、20人ほどのメンバーが鑑賞会に参加した。
集まった構造物は、同じタイミングでたまたま別の作家の方が設置していたインスタレーション
「HANAにいる人たちは各々が自由に過ごしている」。ぼくはさっきこう書いたけれど、「ぼくがうまれた日」の鑑賞会ではこのことをあらためて思い知ることになった。
これもさっき書いたことだが、一般に作品を「みんな」で鑑賞するといわれれば、演劇作品を劇場の客席から眺めたり、映画作品を映画館の客席から眺めたりするシーンを思い浮かべるだろう。このときのぼくらの身体は画一的で、席におとなしく座り、静かに、集中して舞台やスクリーンを観ている。映画館で作品上映前に流れる映画鑑賞マナーの映像で指南される身体がわかりやすいだろう。
でもHANAのメンバーは、そうした「観劇する身体」に縛られていない。
となりのメンバーと話しながら観劇する。
歌を歌いながら観劇する。
となりに座ったHANA職員の名札に書かれた名前を読み上げながら観劇する。
笑いながら観劇する。
座っている場所を移動しながら観劇する。
持ち上げられている黄色い筒が両側から音が出るクッション型スピーカー
鑑賞中もよく話し声が聞こえた
このように書くと、彼らは観劇に集中していないのではないかと思われるかもしれない。しかしそれは間違いだ。もちろん気が削がれているタイミングもあっただろうが、総じて彼らは集中してスクリーンを眺めていた。
彼らは、上述したような行動をとりながらも、あくまでも「観劇していた」。すくなくとも、ぼくにはそのように感じられた。彼らの「観劇する身体」は自由だった。
自由な「観劇する身体」へ
今回のトライアルの成果を整理してみよう。a)個人視聴ブースやネックピロー型などの特殊なスピーカーは、なかなか利用してくれる人が現れず、思うようなフィードバックが得られなかった。他方で、b)床打ちプロジェクションは作品との思わぬ出会いを生みだし、メンバーみんなとの鑑賞会では彼らの自由な「観劇する身体」を目撃した。
aが悪かった点、bが良かった点、だとするのはかんたんだけれど、「劇場をつくるラボ」の目的はただ良かった点を集めることにない。むしろ、aとbを比較し、悪かったかもしれないことの改善点や、aからbへ移行するための方法を模索することこそが重要なはずだ。以下はぼくのその考察である。
aの状況は、「作品」が自立してデバイスのようなかたちとしてそこにあり、「劇場」として構えているように思う。テントをくぐらないと観れないし、スピーカーを装着しないと聴こえない。広くいえば、いわゆる「観劇する身体」になるという意味で、客席に座って舞台を眺める体験ととりたてて変わらないといえる。
一方のbは、いつもの身体のすぐそばに「作品」がある。ふだん歩いている床に映像がプロジェクションされ、自由な行動とともに観劇がある。
「鑑賞することが、日常の選択肢の中に入ってきてほしい」。山川さんが最初にそういっていた。思い返せばbは「ぼくらのかたわらにいつも観劇がある」ような状況だともいえる。
THEATRE for ALLで作品を鑑賞する人の数だけ、その鑑賞環境は異なる。こうした見立てから、多様な鑑賞環境の用意を重視してしまうかもしれないけれど、もしかすると、「観劇する身体自体が動く/変わる」ことからまず考えるべきなのかもしれない。THEATRE for ALLが掲げる「All みんな」へのアクセシビリティは、自由な「観劇する身体」への太い道しるべなのだ。
THEATRE for ALL LABによるこの道しるべをつける活動は今後もつづいていく。「劇場をつくるラボ」を全国に届ける取り組みにぜひあなたも参加してもらいたい。
あわよくば、あなたにも自由な「観劇する身体」を。
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春口滉平
1991年生まれ。編集者。エディトリアル・コレクティヴ「山をおりる」メンバー。『ASSEMBLY』(ロームシアター京都)編集ほか。