応援メッセージ①
vol. 5 2020-03-05 0
監督・和田昌宏に寄せられた応援メッセージが続々届いています!
和田の人柄、あるいは作品に惹かれた方々から、とても勇気の出るとても嬉しいコメントが届きました。
今後、こちらでもいただいた応援メッセージを掲載していきます。
また、映画公式サイトでも見られるようにしていきますので、楽しみにしていてください!!
井出賢嗣(アーティスト)
現代美術アーティストが映画監督に転身することはジュリアン・シュナーベル、スティーブ・マックイーンを代表として前例があります。
和田さんはキャリアの始めから映画セットを用いた作品を多数作っていました。
密閉した部屋空間にハエを飛ばしているインスタレーション、巨大な金塊の山をハプニングで倒すパフォーマンス。
彼の初期の代表作ケバブバンは軽トラの荷台に作ったケバブ屋の中でチェーンソーで丸太をケバブの肉塊のように削ぎ落とすパフォーマンス込みのものでしたが、これは図らずも「悪魔の生贄」のテキサスチェーンソーがオマージュされているものだと推測されます。
そして近年では日本昔話を参照した映像作品「コブトリ爺さん」「山姥」など日本独自のダークキャラクターへの研究を重ねてきました。
このように映画コンテクスト、キャラクターを現代美術の中に引き込んで制作をしていた和田昌宏が機が熟して映画を撮ります。
ようやく現代美術作家和田昌宏が映画監督和田昌宏に転身するというわけです。
初期の作品から大掛かりで妙な舞台美術を制作してきた和田さんだからどんな奇怪なものが映画になるのか、どんな新しい映画監督になるのかとても楽しみです。
山本 篤(アーティスト)
和田作品をどう形容するか?この微妙な感覚を考えてみた。
そこで和田作品=ドクターペッパー論を少しだけ展開したいと思う。万人が美味しいとは言わないであろうあの個性的な味。だけど、はまる人ははまる。時々飲みたくなる。
同じ現代美術のフィールドで越えるべき先輩であり、ライバルでもある和田さんの作品を、正直に言うと「不味い」と言いたい気持ちはある。
「不味い」という人もいるだろう。
作品を見ていて、完全無欠でないとは思う。でもやっぱり「美味い」のだ。
毎日は飲みたくないが、時々無性に飲みたくなるドクターペッパーのように。
よくわからない化学調味料を使った不出のレシピがあるのだろうが、そんなものを知っても、自分が作れるわけではないだろう。
都心から1時間ほど離れた東京西部で40年以上に渡って育まれた感性は「作品=ドクターペッパー」として結実し、群雄割拠の「現代美術=清涼飲料水」の世界で、確かな個性と存在感を放ち続けている。
当然すべての人におすすめはできないかもしれない。
でも一度体験して欲しい。「不味い」というのはそれからだ。
今回、和田さんは長編映画に挑戦している。「不味い」という準備はできているが、結局なぜか「美味い」のだろう。
より大きな舞台で、より多くの人たちとこんな微妙な感覚を共有したいと思っている。
篠田太郎(美術作家)
和田昌宏ら国立奥多摩美術館の企画展示にはいつも胸躍らせられるものがある、少しノスタルジックだったりする要素もカタログやチラシの一貫したデザインにも表れていると思うが、独自で、かつ懐かしいのである。
メンバーのキャラクターも個性的で活動もユニークだけど、一見まとまりのないそれら個々の作家が国立奥多摩美術館として纏まると異彩を放つ。
今回和田さんは自身が監督する映画を製作中である。
予告編的な展示も拝見させてもらったし、撮り終わったカットも短い尺ではあるけど、拝見させてもらった。
脚本はまだ完成してないようであるが、なので和田さん本人にも説明ができないようなのであるが、なんとも不思議な映像で、国立奥多摩美術館の雰囲気そのままである。
印象として僕にはちょっとウッディー・アレンの「Everything You Always Wanted to Know About Sex * But Were Afraid to Ask」を思い出してしまう。
いずれにしろ不思議な雰囲気の映像が断片的に撮影が進んでおり、それが最終的にどのように編集されるのかまったく謎ではあるのだけど、そして内容も同様に謎だらけなのだけど、その断片的な映像だけでも目が離せないのも事実である。
僕としてはなんとか完成にこぎつけて貰いたいと思っている。皆さんのご助力も期待している。そしてその才能が花開けば我々にとってこんなに豊かな事はないだろうし、、、、。
阿目虎南(振付家・ダンサー・俳優)
和田さんが映画を撮るという。私はその主演に抜擢された。私が和田昌宏の映像作品を鑑賞するときそれはいつも、暗室化された小さなギャラリーや、山奥にインスタントに小屋を組みスクリーンを設えたスペースにおいてであった。
危険な詩の匂い。彼の作品はそのどれも、鑑賞に際し白昼夢に似た心地を与えた。私は少人数ないし独りきりでその暗い空間に身を潜め、程よい硬さのソファに沈み込むように鑑賞に耽る。時折、映写機からスクリーンへと続く半透明の光の束をぼんやり眺めていると、空っぽの潮騒が満ちた。
本作撮影初日。現場は台風直撃後の、奥多摩。道すがら洪水の残骸を踏み締めながら、先日喫茶店で彼と話した言葉のピースに想いを馳せた。人と人とが通じ合う為に使われる言葉と、自ら言葉を失うことと。
私の演じる主人公は、おそらく私とはかけ離れた人種なのだろう。それで構わない。私は誰かを演じたことはなく、その役柄を私の中に探し、引きずり出してきた。或いはそれが必死で擬態することなのだろうか。私はいつも私に擬態してきたのだろうか。
カメラ越しの冷やかな視線に向き合う。
私は或る男と、或る男として向き合う。
私は問いかける。
和田昌宏が私を通して問いかける。
何を?
「Songs For My Son」
かの仔のための唄
かの仔における唄
君にはどんな唄が聴こえる?
それは監督である、和田さんの求める地平で再現を為されるべきなのだろう。
その為の遠い道のりに手が差し伸べられることを祈る。