映画「曙光」に寄せられたコメント(作家・鹿島田真希さん)
vol. 35 2018-06-12 0
作家の鹿島田真希さんから映画『曙光』へのコメントをいただきました。
「ここには仲間がいて、住むところと食べるところがある。傷ついた人間が、そんな場所を無償で提供されたら、その後どうなるだろうか。
舞台は「ハートビート」という小さな組織である。スタッフと被救済者は自殺者を踏みとどまらせ、農村で自給自足の共同生活を営んでいる。しかしその共同体は大きな矛盾をはらんでいた。そこには眠る場所があり、食べる物があり、慰め合うことのできる仲間がいる。そのことが様々な問題を起こす。共同体の居心地の良さのために、社会復帰できなくなる者。ためらいの末受け入れた人間が起こす暴行事件。救助をしようとしたが、反対に無理心中の犠牲となり命を落とした構成員。
共同体の発揮人である文絵の元には多くの苦情やいたずら電話が寄せられて、彼女も自殺志願者救済の意味を考え、迷う。それでも結論を出す暇もないほどに自殺願望者からの電話は鳴り止まない。
誰もがこのような共同生活をしたら、共依存的になることをわかっているように思う。モデルとなった共同体の発起人も、この作品の製作者も、この作品の鑑賞者である私たちも。それでも繰り返し、人を助け、慰め、時には甘やかす人間が描かれている。これを単なる軽率で偽善的なボランティア活動家の物語といえるだろううか?
自立できない人々の集団が愚かであるというのはたやすい。私たちの共同体――家族、恋人、友人同士は完全に慰めや甘えがないといえるだろうか。人は一人では生きてはいけないのだ。どこかで経済的に、あるいは精神的に誰かをあてにして生きている私たちは、この共同体の構成員を決して特別、貧弱な人々であるとはいえないだろう。
自殺を止めさせることに成功したからといって、そこでハッピーエンドというわけにはいかない。彼らにはその後の人生があるのが現実だ。「ハートビート」で癒やされる人間がいる一方、その共同体は自立する力を奪ってしまうリスクを背負っている。
それでも私たちは自殺を止める理由はどのようなものなのか、その後の彼らの人生をどこまで保証すべきなのか。人を助けた人間は、その人間の人生のどこまで責任を持つべきなのか。自殺の問題を契機に、苦悩する文絵の姿をそのまま描くことによって、人を救出することの難しさがリアルに描かれている」
鹿島田真希(作家)
/1976年、東京都生まれ。98年『二匹』で文藝賞を受賞しデビュー。2005年『六〇〇〇度の愛』で三島賞、07年『ピカルディーの三度』で野間文芸新人賞、12年『冥土めぐり』で芥川賞受賞。
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映画「曙光」は2018年10月6日よりアップリンク渋谷にて公開です。
https://www.facebook.com/shokoumovie/
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