「バリアフリー版をつくる」(後編) 共同監督:三好大輔
vol. 5 2022-11-10 0
バリアフリー版をつくる (後編)
<音声ガイド版づくり>
字幕版が完成して間もなく新たな原稿が送られてきた。今度は目の見えない人に向けての音声ガイドの原稿だ。映像に映っているものをできるだけ正確に言葉に置き換え、ナレーションに反映させる。音だけで情景が想像できるような組み立てが求められる。準備してもらった原稿は、映画で語られている言葉以外に、映像で表現されていることを説明した言葉が記してある。映画本編を流しながら、チェックしていく。用意された原稿が「PC画面に美術館職員」とあったものは文脈から読み取れるため「オンライン会議」に変更。言葉選びと共に、簡潔な表現に置き換え、不必要な言葉は削っていく。
音声ガイド版のモニター会も字幕版と同じ会場で行われた。参加したのは、モニターさんとなる全盲の女性2名、パラブラスタッフ2名、そして監督の僕と祐子さん。この日のモニターさんは、生まれた時から見えない方と、数年前に目が見えなくなった方。見えている世界を知っているのと知らないのでは、世界の把握の仕方がまるで違う。元々見えてない方は、音で世界を把握することができるように見えるが、中途の方は見えていた時の記憶を辿っていきながら世界を構築しているように見える。
モニター会がはじまる。本編を流しながら、スタッフが用意した[音声ガイドモニター稿]のナレーションを読み上げる。我々は手元のラジオとイヤフォンでその声を聴く仕組みになっている。発せられる言葉の内容が的確かどうかを判断しながら、確認作業をしていく。「窓から見える満開の桜の木の下を車が走っていく」という部分は、車に大きな意味を持たせている訳ではないので「窓から見える満開の桜」に変更。「ピンチハンガーに几帳面に並べて干された洗濯物」は簡潔に「几帳面に並べて干された洗濯物」に変更。ナレーションのタイミングでもシーンの印象が変わってくる。映像にリズムがあるように音にもリズムがある。カット変わりで、音の状況を把握する間をとってからナレーションを入れるように留意した。雨が降っているシーンでは、「ザーッ」という雨音を聞かせてから「窓から雨に濡れる家や木々が見える」というナレーションを入れる。ナレーションにより聞き取れなくなる言葉も出てくるが、文脈が削がれないように配慮しながら、原稿を組み立てていく。まさに職人技だ。19時過ぎにモニター会は終わった。
<ナレーション録音>
音声ガイドの場合、モニター会のあとにさらに本番のナレーション録りが必要となる。今回、ナレーション録りはパラブラの地下にあるスタジオで行われた。窓のない部屋にミキサーのNさんとパラブラスタッフ2名。そして大学の同級生でナレーターの東涼子さん。大学時代の気心知れた友人だ。有緒さんが都合をつけて駆けつけ、日大芸術学部時代の同級生3人が揃い、しばし話が盛り上がるが、今日は仕事に集中しなければならない。スイッチを切り替えて早速ナレーション録音をはじまった。
普段はNHKのラジオなどでナレーションをしている涼子さん。安定した声が映画のトーンに馴染んで好感がもてる。涼子さんの声は『白い鳥』のバリアフリー版でも担当してもらったが、今回は前回の50分の倍以上の107分の作品。全編を通じて変わらない声のトーンで走り続けることが必要だ。はじめに、声のトーンや方向性を整えて録音スタート。モニター会を反映した[音声ガイド収録稿]に合わせてスタッフが的確に指示を出しながら進められていく。準備稿、モニター稿、と複数の目をもってチェックしてきていても、本番で実際のナレーションが入ってみると、違和感を感じることも多く、その度に原稿をその場でひとつずつ修正していく。「読み上げる〜原稿を修正〜読み直す」を繰り返していく。やればやるだけブラッシュアップされていくのだけれど、原稿修正と撮り直しが重なり遅々として進まない。それでもそこは皆プロフェッショナル。嫌な顔ひとつせず、集中力を切らさず、まっすぐに作品づくりに取り組んでいく。朝10時にはじまった録音が終わったのは18時だった。
実は、この日のナレーション撮りが終わり差しかかり、エンディング曲の訳詞の部分を録音している時、なんだか僕はセンチメンタルな気分になっていた。なにしろ2年を超える長い道のりがこの作業で終わろうとしていたのだ。
有緒さんが訳した歌詞「あたりまえのことなんだ」がリフレインする。
「あたりまえのこと」ってなんだろう?
白鳥さんと出会い、映画をつくった。目の見えない白鳥さんは、僕にとって最初は特別な存在だった。特別な白鳥さんにカメラを向けていた。けれども沢山の時間を共有する中で、特別な白鳥さんは、あたりまえのようにただ一人の白鳥さんに変わっていった。ありのままの白鳥さんを撮りたいと思いカメラを回し続けた。自分の中で見えない人に対する偏見が小さくなっていった。障害があるとか無いとか関係なく、社会が決めた枠組みを「そこをなんとかお願いします」と超えてきた白鳥さん。壁を超えることは簡単なことではなかったと思うけれど、自分一人でどこまでできるのかを探ろうと踏み出した。その先にどんな世界が広がっているのかはわからない。けれども手探りで20年以上も美術館に通い続けてきたのは、自分の可能性を探るために踏み出したあの時の気持ちから何も変わってないからだと想像する。「あたりまえのこと」の意味がそこに重なっていく。
長い歳月を経て映画が完成した。バリアフリー版も整った。これからが映画のはじまりである。大きな仕事を終えた充実感を感じつつも、創ることが終わってしまう寂しさも感じていた。映画をつくりながら、目が見えるとか見えないとかいう前に、ひとりの人間としての白鳥さんであることが「あたりまえ」なことだと知った。白鳥さんは言う。「見える、見えないは、大したことじゃないんじゃないか」と。
今、劇場公開に向けた道を歩いている。どこに繋がっている道なのかはわからないし、どこかで転んでしまうかもしれない。次から次へと立ちはだかる壁を乗り越えるのは簡単なことではないけれど、レールの敷かれた道を安心して進むよりも、どこまで行くのか見えない道を手探りで歩くことにワクワクしている。自分の可能性を探るのは「あたりまえのこと」。未知の荒野を歩くことを教えてくれた白鳥さんに心の中でそっと感謝している。こんなことを言うと、白鳥さんに「え、オレそんなこと言ったっけ?」とビール片手にはぐらかされそうだから。
<映画の神様>
帰り際、バリアフリー版の監修を務めた松田さんがこういった。
「本当はこっそりとこの仕事をやってるんです。映画の神様に怒られるんじゃないかと思って」。
え?と耳を疑った。見たくても見ることが叶わない人、聴きたくても聴こえない人たちに映画を一緒に楽しめるようにする素晴らしい仕事だと思っていたので、その言葉は意外だった。聞くと、映画を作った監督の作品を勝手にいじっているような後ろめたさがある、というのだ。いやいや、全くそんなことは思わなくていい。少なくとも僕はそう思う。障害があるとか無いとかは関係なく、一人でも多くの人たちにこの映画を観て欲しいと感じるのは監督として当然のことだ。バリアフリー版を制作することで、制作者の意図が歪められる心配は確かにある。そうならないために現場に立ち会っている。この共同作業はこれまでの制作とは全く意味が違った。映画をつくることは0を1にする作業。どこを泳いでいても許される。けれど、バリアフリー版は1をver.1.1とかver.1.2にアップデートしていく作業。軸は変えずに装いを変えて伝える。
言葉を丁寧に選ぶことにより、この映画の強度が増していったような感覚があった。同時に、伝えられることの尊さを感じていた。このバリアフリー版を通して、一人でも多くの方にこの映画を楽しんでもらいたい。間違いなく映画の神様は微笑んでいるから。
2022年11月10日
『目の見えない白鳥さん、アートを見にいく』
共同監督 三好大輔