【脚本はどうやって書くの?】戯曲同好会⑧アリストテレス『詩学』
vol. 53 2020-04-29 0
笠浦です。クラウドファンディングの実施も、もう残すところ2日……!本当にたくさんのご支援ありがとうございます。支援は劇団のためのものですが、劇場も気持ちが励まされます!皆様にまた素晴らしい演劇をまたお届けできるよう、劇場も頑張ってまいります!
でも素晴らしい演劇ってなんでしょうか。きっと素晴らしい演劇の脚本は素晴らしいんでしょうけども。かくいう私が劇団主宰で脚本をかいています。商売柄、役者さんやスタッフさんよりは、ステイホームが得意かもしれません。脚本は家でぽちぽち書き続けることができますし、平時であってもそうやって一人で書くしかないのです。
たまに、「脚本ってどうやって書くの?」って言われることがありますけど、正直私もわかりません。その倍くらいの頻度で「何で書けないの(怒)!?」って聞かれますけどそれもわかりません。「あなたは今、何らかの事故により私が書けないと思っているだろうが、むしろ書けるという事態が何らかの事故なのであり、現状は無事故なので書けないと理解していただきたい」って答えたことがありますが、火に油でしたね。でも、どうやって書くかということは自分でやっていても本当にわからないのです。
とはいえ、紙とペンさえあれば誰でもチャレンジできるのが作劇です。おうちにいる方も多いでしょうし、才能っていうのは書いてみないとわからないので、これを機に、どなたさまも一度書いてみればいいんじゃないかなって思います。
さあ書くか!っていうときにハウツー本を読みたくなってくる人もいるかと思います。
「ドラマの書き方」「脚本術!」みたいなものって山ほどあって、私も藁にも縋る思いで結構読んだんですけど、物によってはすごいイラつくことがあります。「これを書いてるお前は誰なんだよ」「お前に何の権威があるんだ」「これを読んだ結果名作生み出したやつはいるのか」みたいな、うがった気持ちがわいてきます。というかハウツー本って、「何様だ」という気持ちにさせがちですよね。
そんなひねくれた気持ちがうまれにくいハウツー本を、一冊紹介します。
じゃーん。
(たしか表紙は醤油こぼしたんで捨てました)
アリストテレス『詩学』
★おすすめポイント★
- 著者がめっちゃ権威!(万学の祖)
- あの売れっ子も影響を受けた!(ラシーヌ、モリエール、ゲーテ、ミルトン、シラー、ニーチェ、ブレヒト)
古代ギリシャの哲学者アリストテレスは形而上学、生物学、宇宙学など多岐にわたる研究成果を残し、あらゆる学問が彼の哲学の中に含まれていたことから万学の祖ともいわれます。『詩学』の「詩」とは、実質「創作」のことです(この時代、物語は大体散文じゃなくて韻文だから)。芸術論の古典中の古典であり、その後の芸術論に絶大な影響を及ぼしたのはもちろん、創作の世界でも数えきれない芸術家が、信奉したり、曲解したり、反発したり、挑戦したりしてきたのです。
紀元前4世紀に書かれてるので、ちょっぴり古さはあるけれど、著者が権威過ぎてなんにも文句言う気にならないのでとてもおすすめです。
そしてこの古典中の古典の内容はといえば、まさに妥当中の妥当。いやまじで。なんの飛躍もなくめちゃくちゃ普通のことを言ってて逆にびっくりします。例をあげると、「書こうとしてることを目の前に思い浮かべてみると、生き生きした表現ができるかも」とか書かれてます。読んで出てくる感想の第一声は「せやな。」ってところです。
アリストテレスが挙げている個別の具体作品について、誰の作品がどうだとか、時代が違いすぎてピンとこないんですけど、結論部分には、急に共感できます。(知らない果物の名前を連呼されたあと、「結論:果物はおいしい」みたいな、そんなイメージを持っていただければ……!)
『詩学』ではおもに悲劇について語られていて、というのも現存している『詩学』は第一巻にあたる部分で、喜劇について書かれていたと思われる第二巻はすでに散逸してるからですね。現存する『詩学』は悲劇について、どうやって素晴らしい劇を書くのか、ということを論じています。
全26章ですが短くてさくっと読めます。著作として残すつもりじゃなくて、講義用のメモだったともいわれています。
構成としては、素晴らしい悲劇とはなにか?を定義したうえで、素晴らしい悲劇にするために必要なことを述べていきます。以下にかいつまんで内容をご紹介いたします。
★詩作とは模倣である
せやな。私もそう思います。プラトンも『国家論』の中で創作は模倣だって言ってます(再現とも訳しますね)。プラトンはわりと否定的にこれ言ってて(所詮模倣に過ぎないから、究極必要ない、みたいな)、プラトンの弟子のアリストテレスはむしろそれに反論する形で、創作は模倣、模倣を愛するのは人間の本性!って論調でかなり肯定的なんですよね。
つまり、演劇における感情や行動とか関係性は、実際の、真実の、「悲しみ」とか「親子」とかそういうものの、あくまで再現にすぎないんだけど、もともと人間は再現や模倣を通じて学んだり楽しんだりっていうのを、幼少期からみんなが自然にしてきてて、それが人間の本質的な部分なんじゃないかしらってことですね。
すきな一節を引用します。
「例えばわたしたちは、下等生物や死体など、実物を目にするのが苦痛な対象であっても、それを極めて精緻に描いた像を鑑賞するときには喜びを感じるのである」
わかるわかる。ありますよね、そういうこと。現実のグロは嫌なのにフィクションのグロは見ちゃう。ホラーでもなんでも、現実なら絶対嫌だけどフィクションなら観たいっていうのはほんと何なんでしょうね。
★悲劇とは、憐れみやおそれの感情を引き起こし、そういった諸感情からカタルシスを成し遂げるものだ。
いや、それな。反論の言葉がとくに思い浮かびません。
重要なのは、大きな感情が動くのは、登場人物ではなく、受け手だということ。登場人物がその感情になるってことと、その感情を観る側に「呼び起こす」ってことは全然違うことなんですよね。
カタルシスは古代ギリシャ語でそのまんまカタルシスです。浄化って訳が一般的ですが、そもそもアリストテレスが『詩学』のこの部分で使ったがゆえに、いまも使われてるような「演劇とかみたときの、ラストあたりの、あの感覚」を指す用語になったわけですね。
アリストテレス自身は本文中であんまり何の説明もなくカタルシス(浄化、清めなど多数の意味あり)って言ってて、これはどういう意味なのか、研究を巻き起こしましたけど、おそらくはいま私たちが使ってるような意味とまったく同じような意味で言ったんじゃないかなと思います。
★そのために一番大事なのはストーリー
これもそうやな!としか言えない。ここにおけるストーリーは、アイディアとかの意味ではなく、物語の構成みたいな意味です。
「第一に、悲劇は人物そのものの模倣ではなく、行為と人生の模倣だということである。幸福も不幸も行為のうちにあるわけだから、何らかの行為こそが人生の目的であり、人物の質そのものが目的ではない。なるほど、性格が人物の質を決めはするが、幸福になるか反対になるかを決めるのは行為なのである。」
自分で書いてても、他人の作品みてても、このことはほんと大事だなって思います。シーンが登場人物の性格紹介みたいになっちゃうことってあるんですよ……。それすごいやりがちなんですよ……。「この人はこういう性格だからこういう運命になった」って考えるとどうしても「性格紹介にすぎないシーン」が生まれちゃうんで、「この人は(作中で)こういう行動をしたからこういう運命になった」って考えないと、物語がドライブしていかないのは確かだと思います。
あと、創作とかじゃなくて普通に身につまされる言葉ですよね。ひえー、がんばろって思う。
★ストーリーっていうのは必然を積み重ねて作る。超展開はよくない。
つまり、こうなったからこうなるっていう因果でつながってるのがいいのであって、たとえばシーンの前後を入れ替えたときに、全体の因果が崩れるようでなければいけない(シーンが入れ替え可能ということは必然でつながってない)、というようなことを言ってます。
デウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)って言葉があって、その前にどんなに話がとっちらかろうが、突然神が現れて諸問題を解決して終わり!みたいな展開を指します。(実際古代ギリシャ演劇ではよく神が出てきて解決してた。それが観客に喜ばれるって側面もあったんだと思います)
アリストテレスは、それはずるいでしょ、デウス・エクス・マキナはなしでしょ、ちゃんと積み重ねた中で解決しようよって言ってるわけですね。
物語のあらゆる禁じ手って、その多くがオチに関するもので、アリストテレスにとってのデウス・エクス・マキナとほぼ同じようなことを言ってる人は多いです。手塚治虫が夢落ちを禁じたのもそうですし、ミステリー界の「ノックスの十戒」も謎解きの禁じ手についていったものですし。
私が自分で書いててよく思い出すのが「チェーホフの銃」です。これも禁じ手に関するもので、チェーホフが言ったとされる「もし一幕で銃を出すならどこかのシーンで撃たなきゃいけないし、最後まで撃たないんだったらそもそも銃をだしてはいけない」という戒めのことです。もっともですよね。使うものだけ出しとけ、無駄なもんを舞台上にのせるなって意味にとってたんですけど、これ、実際私も舞台に銃を出してみてわかったのは、逆に物語終盤に銃を撃つシーンが展開されるなら、銃自体はかなり早めに出しとかないといけないんだなってことです。銃とかもデウス・エクス・マキナになりえるというか、ある程度絶対的な効果を持つものなので、急に出てくるとずるい感じがするんですよね。
登場人物が全員幸せになったとしても、超展開における解決ってがっかりしちゃうものですけど、古代ギリシャからそれってがっかり案件だったんだなと思うと感慨深いです。
★ストーリーには統一性、完結性が大事
「「一人の人物」をめぐるストーリーでありさえすれば統一性があるというわけではない。なぜなら、一人の人物には多くの、数限りない出来事が起こり、その中のいくつかは寄せ集めても決して統一性のあるものにはならないように、行為の場合も、一人の人物は多くの行為をなすのであり、それらを寄せ集めたからおいって統一性のある「一つの行為」にはなりはしないからである。」
アリストテレスの時代は史実にもとづく作品が多かったから、史実を物語に落とし込む作業がうまくいってないなって感じることも多かったんでしょうね。
めっちゃよくわかります。一人の主人公の行動を追ってるから、あたかも一貫したストーリーがあると勘違いしてる作品ありますよね、あ、悪口になりそう……。
これ、取材による落とし穴みたいな側面でもあると思うんですよ。私もよく陥りそうになります。ちゃんと取材したり、扱っている素材に実際の経験が伴っていたりすると、「だって実際そうだったもん」が強くなりすぎちゃうんです。実際に見たもの聞いたものは、考えもなくシーンにぶっこみがちで、これはとても危険。現実にどうだったかを、捨てたり補ったりしないと、物語として成立しない、ころがっていかないんですよね。
★ストーリーは、逆転と再認が起こるとよい
- 登場人物の関係などが逆転する(敵同士の関係だったのに、逆に助け合ったり)
- 何か事実を再認する(実は、私こそがお前の父だったのだ…!みたいな、衝撃の事実発覚)
ってことがあるといいよね!ってことです。うん。私もいいと思います。というかものすごい数の物語が実際にこうなってますよね。
アリストテレス的には、逆転と再認が同時に起こればなお良くて、それも推理とかでじわじわ事実を知るんじゃなく、物語上の必然で新事実発覚!関係逆転!ってなるのが一番面白いよねと言ってます。(でも、体にあざとか印があって、それをみてもしやあなたは…!ってなるのとかいかにも陳腐だよねみたいなことも言ってます。)
ハリウッド映画論と言われてもまったく違和感ないくらいの正論ですね。あと、逆転について、逆転して不幸ないい人が幸せに、悪い人が不幸になるようなやつ(勧善懲悪)、これが受けるのは分かるが、これを好む観客はレベル低い!って言ってて、現代と何も変わらなさ過ぎて笑っちゃいます。
大筋としてはこんなところかなあと思います。全体的に当たり前の内容が逆に染み入りますので、是非読んでみていただければと思います。登場人物の性格の作り方とかなかなか面白いです。
あ、私の好きなところがあるのでそれだけ紹介しますね。
「詩人の仕事とは、実際に起こった出来事を語ることではなくて、起こるであろうような出来事を語ること、つまり、もっともな展開で、あるいは必然的な展開で、起こりうる出来事を語ることにある(中略)歴史家は実際に起こった出来事を語り、詩人は起こるであろうような出来事を語る」
これは心にとめてます。どうだったかじゃなくて、どうでありえるかっていうのは忘れずにいたい。
紙に向かってセリフを書くということを、ほぼ誰でも、することができます。表現は限りなく自由ですが、これはやってみればわかることですが、決してノールールというわけじゃないんですね。どうやって書くのか、何が創作のルールなのか、書き始めた当初から今まで人類はずっと探してきたのです。公式に認められるセオリーから、個人的なマイルールまで、創作には大小さまざまな法があり流儀があり決まり事があるのです。
『詩学』について私が最もいいなと思っているのは、「何を」書くかではなく「どうやって」書くかということだけに焦点を絞っているところです。
物語を書かない人にとって、何を書くのか、つまり登場人物や世界の設定だったりアイディアだったりということが最も大きな問題に見えるのかもしれないのですが、実際「何を」という問題は「何でもいい」に尽きる話だったります。
例えば、実話でもいいのです。
アリストテレスが「何を」に注力して書いてないのは、古代ギリシャ演劇が、もともとある史実などを演劇にすることが多く、完全オリジナルストーリーがむしろ稀だったというのがあります。
だから、もしもこれを読んでいるあなたが、初めて脚本を書いてみるとしたら、単に友達との会話とか、そういうものをただ書いてみればいいのです。発表する予定がなければそのへんはとても自由です。あなたの友達や恋人や親、とあなた自身の実際の会話をそのまま書いてみるとします。で、でき上がったものを、ちょっと直してみてほしいのです。そこに「どうやって」書くかがあります。その「どうやって」が創作のほとんどすべてだと私は思います。同じ題材、例えば男女の別れのシーンについて、世界的な名作もあれば噴飯ものの駄作もあり、要は現実に起きていることをどうやって直して書いたかの差にすぎないのです。
そして直してみるという作業から、あなた自身が創作物についてどんなルールを持っているかを知ることができます。
もしあなたが、会話の言葉を置き換えて、より明瞭な言葉に置き換えたり、主張を分かりやすくするのなら、あなたはセリフについて、的確な言葉を選ぶのが良いと思っているんでしょう。あなたが言葉数を思い切って減らすなら、簡潔さを重んじてるのかもしれませんし、逆に流麗な言葉を足すなら、セリフに修辞的な美しさを求めているのかもしれません。コミュニケーションを阻害する方向に修正をかけるなら、心の通じなさに会話の本質を見ているのかもしれないし、体がゆがんだり物理法則が無視されたりするなら、抽象画のような方法で現実にアプローチしたいのかもしれません。そこに、あなたなりの創作ルールがあるのです。
どのように直してもいいんですが、一番起こりそうなことは「そうはいっても方針もないのにどうやって直したらいいのかなんてわからないよ」となることです。その時の気持ちこそが、大体の脚本家が常に抱えている苦悩そのものであります。ずっとやっててもそれが分かるようにはなりません。
アリストテレスは、こう言ってます。
「詩作は、恵まれた資質を持つ者の業であるが、そうでなければ狂気の者の人の業である。」
どうやって書いたらいいのかは永久にわからないので、これを続けるのは苦しいことです。でも続けていけば、自分が何を大事にしているのかの創作へのルールが見つかっていったりします。そして創作には無数にルールがあるけれど、破ってはいけないルールは別にありません。自分が心から信じることができるルールを、どうやったら敗れるのか考えるのは実は一番楽しかったりします。例えば、夢落ちは絶対やらないと決めているけど、それまでにどんな流れがあれば夢落ちが許せるかしら?とか。禁じ手をうまく使えたときはそりゃ楽しいです。またよく知られたセオリーは、最善手順であり最少手順であることが多いので、あえてセオリーを外すとかなりの手数がかかります。それも楽しいんですけど。
私はアリストテレスには明確に共感できないところがあって、それはアリストテレスが「上演は前提にしなくてよい」「上演しなくても、いいものはいい」と言い切ってるところですね。「本で読む」ってことがすでに一般的だったわけです。俳優は必ずしも必要じゃないぞっていう、俳優中心主義みたいなものへの反論があったものと思われます。
ていうか、このアリストテレスの時代も、シェイクスピアの時代も、チェーホフの時代も、とにかくずーーっと「俳優は調子に乗って大げさな身振り手振りつけんな!自然にやれ!お前自身じゃなく物語を表現しろ!」みたいなことが言われてて、「お話じゃなくてスターを鑑賞するだけになっちゃう問題」っていうのがいかに根深いかが分かります。それって同時に、俳優が魅力的だということだと私は思いますね。
作劇について自分のルールを破っていく瞬間は楽しいもので、自分が深い信じたルールであるほどその楽しさは増しますが、おおむね、俳優による上演というのは、「私がいけると思って持ってきたもの」を覆してきます。演じさせてみたらこれ全然違うな!ってことが本当に頻繁にあるんです。目の前で俳優が演じるって、ちょっと机上の理論は越えてきちゃうインパクトがあるんですよねえ。
私は脚本家なので、演劇に関わる人々のなかで一番ステイホームがダメージになりにくいです。もともと家で一人で書いてます。だからこそみなさんにも、これを機に書いてみては?とか言えちゃうんですけど、それでも、俳優とかスタッフとか劇場とか、多くの「家では仕事ができない人」がいて初めて書けているんだと思っています。上演することの魅力を知っているので、上演の魅力に飲み込まれない本を書きたいと願っています。上演しないと、やっぱり意味ないなって思ってしまいます。
このクラウドファンディングが支援する劇団が、また上演を迎えるために、どうぞ、最後のもう一押し、よろしくお願いいたします。