【後編「笠浦さん〜北川さん」】流行りの「ZOOM飲み」で平井がアレコレ聞いてみた
vol. 50 2020-04-27 0
前回の続きです。
○笠浦静花さん
確かな理論や状況の解釈、過去の事例を多大な容量抱えながら、太く止め処ない素直な刀を胸に秘めている、
その上で、ストレートを気持ち良くカッコよく投げるのに費やしている、
自身の道にとにかく献身的な笠浦さんは、強い当事者意識を持った、演劇界の知性の侍です。
その先に責任を取らないといけない事もあるかもしれないという事にもとても敏感というか、すぐ脇に小刀を抱えて覚悟を決めているかのような、
気の途切れない、座った肝やスゴ味を剥き出しにしており、人々をハッとさせます。言葉も巧みな方ですが、そういった姿勢に、きっとハッとします。
笠浦さんの姿勢こそが、笠浦さんを形成しているよう感じます。人生経験に裏打ちされて、こんなに痛快な人はなかなかいないのだと、そして切り捨てもきっと辞さないそういう向き合ってくださる点で、緊張というか、身が引き締められる思いです。
私なりの印象をつらつらと書き連ねたわけですが、笠浦さんは、とにかく色々な物事に対して、杓子定規ではなく、それぞれに素直な方なのだと感じました。
演劇とともに生きてこられたとおっしゃられる笠浦さんは、そういうわけで演劇に対して特に素直で、舞台作品に向き合う姿は、笠浦さん自身の子供に向き合うようです。
演劇に向き合う姿勢がストイックであるという事はたびたび語られる話ではありますが、その根本には、自分の演劇を守り続ける、母のような一面を思わせます。
例えば笠浦さんの舞台では、音を出す時、笠浦さんはその時に、「音がどこから出ているのか」をはっきりさせるのだと仰っていました。舞台上にあるグラスから鳴っているのだとか、風に吹かれているのだとか、使われる音楽の背景からきちんと舞台の血肉である音の存在をリンクさせて、舞台それ自体が戸惑わずに、自意識を持って鳴らさせているようにも感じられます。笠浦さんの舞台は、「きちんと発言ができるしっかりした子だ」とぼんやり感じていた事が、オンラインでお話を伺うにつれて回収されていきました。
演劇は、リアルであるから、ライブであるから好きというお話もしてくださいました。舞台の幕が開いた瞬間、その日が尊いとの事です。特に興味深いのが、ゲネプロでの感覚についてのお話です。ライブに対してゲネプロは、笠浦さんにとって、みんなの前に顔を出す前の最終調整、服装や色々を整えてあげるような、笠浦さんと舞台の為のもののようです。幕が開けたなら、今度はお客さんと一緒になって、お客さんの感覚にリンクしながら観る、全く別の意味合いになるのだそうです。
笠浦さんの演劇の為に、笠浦さんは最良の方針を持っている、と目を見張る思いがしました。本番のステージで、観客と感覚を同化させたい、それでこそ悦びというところに、笠浦さんの演劇との向き合い方が如実に現れていると感じます。
また、等身大の人間として、悩む事を見ないふりしないという旨の点にも、シンパシーを感じました。そうであるから、きちんと方針を持たれた、ロジカルポップな最高に友達にしたいような作品が、私らと同時代性を持って生まれてくるのだと思いました。
○烏丸棗さん
烏丸さんは、演劇と仲の良い方だなと感じました。
小さな頃から演劇に携わっていて(実は芸歴で言えば職員で随一の暦!)、環境や考え方が変わっていくご自身の成長や変化に際しても、演劇という存在は自然と離れず、いつも一緒にいるようでした。
ご自身が主宰される牡丹茶房は、そういった烏丸さんとのパートナー性を持つ、象徴的な存在だと感じました。
今は「第3期」牡丹茶房で、これまでにはご自身なりに大きな転換期が、2度あったとの事です。それらの契機は、それ時点での烏丸さんのその時点からそれからに関わってくるような姿勢の変化に基づいていて、
たくさんの血肉を蓄えてきては、ソリッドにしてきて今の劇団の形があるようでした。
演劇をやるのが自然な生き方になってきていて、その中でどうやってお客さんを楽しませるかが面白くなってきたという旨を、お話の中でお聞かせくださいました。
年齢によって、創作の仕方は変わってきた。殺意とか、推理アイデアとかが発端になった事はない。そういう時に人はどうするのか、そういうところに今は興味がある、との旨もおっしゃっていました。
それらは、人と向き合い続けた烏丸さんならではの、芯が通った、烏丸さん歴の展開が見られているとお話の中で感じました。
何かに対する反感という事に向けても、込み上げる熱情を、ヒステリックにもなさらず、見ないふりして裏切る事もなさらず、ある意味で経を記すような淡々とした向き合い方で、創作でレスポンスし続けてきたのだろうなという印象を勝手ながら持ちました。
怖い話やスプラッタものを観るのが苦手、という事と、凶悪な事態に直面した人々を描く牡丹茶房の作風が、私の中で1つの面でマッチしました。
傷つけられる事は結果論で、その間に人は、様々な過程を経ていくわけですが、そういった人の過去を、烏丸さんご自身の中で、見つめ続けているという慈愛があるのでしょう。牡丹茶房の名前の由来に対するエピソードも、親友をからかって語るような楽しそうで優しい顔つきから発せられていて、よくわからないところで過敏症になってしまう私は、ひっそりとじんとしていました。
お料理が得意という触れ込みで劇場から料理動画を挙げている烏丸さんですが、もともとお料理がお好きで、という始まりではなかったそうです。料理に挑戦していこうと考えられたいきさつについては、劇場から出ているコラムにもあるので割愛しますが、たとえ話で演出の話が出てきているように、どういうところでも肌から離れない、演劇との距離感で、いつも自然な肌感覚で向き合っているのだと滲み出ているようでした。
○伊坂共史さん
伊坂さんが(私の価値観では)一番イかれていると感じたところが正直なところで、イかれているというと(悪意は決してなく)語弊がありますが、「小さい頃からそんなに今まで芯が通っている人間がいるのか!?」と、伊坂さんが完成していく道筋を辿ろうとしてみても、最初からあまりにハイクオリティな強さを持っているとしか思えず、ポケモンでいうと、人間をヒトカゲの生態にならわせて、子供の頃からいきなりリザードンとして猛威を奮っていた人間がいるのかと、それでいて今も変わり続けてはいるわけで、そのままの意味での精神面での巨人症の人と、下手な表現を打ってしまいたくなってしまうくらい、私の価値観から規格外な方でした。この違和感を書きたくて、過激な表現ばかりしてしまいます。面白いです。
面白いもの、新しいものに触れたいと感じているところには、年月を経ても、芯が通っている事であるそうです。
中でも演劇は、色々なセクションが混じりあっているから可能性にも満ちていて、
そういう面でも、劇場というのは自分がいるには絶好のところかもしれないとの旨をお話ししてくださいました。
演劇観についても、目から鱗が落ちるような、それでいてボデイに効いてくるような、私にはボデイで「わかる!」と思える話をたくさん聞けました。
その中の1つで、様々なセクションが舞台にある中、
最低基準のクオリティだった部署が、その作品のクオリティを決めるという、1つの判断基準のお話が一際印象的でした。
伊坂さんは演劇と携わるにおいて、
演劇と関わり始めるようになり、以前より舞台の役割の中で見識のあった音響から始まり、今も続けているとの事です。
ご自身が音響の仕事をする時に、伊坂さんが全力で仕事をするという前提があった上で、自分で座組の最低ラインは絶対に下回らないぞという意気込みが、ご自身にとってのご自身の仕事への評価軸を担っているとおっしゃっていました。私も何かする時に、座組のなにかしら抽象的なところにライバル意識を持って臨む事でモチベーションを保つ節があったので、それが1つ別の角度から言葉になったような感覚に、一瞬冷たい滝に打たれたような鮮烈なインパクトを受けました。
そういったところに評価軸があるから、
ご自身の仕事を立ち返って見直す時に、自己評価の最低ラインを一々探らなくても、ちょっと心配になった時に手っ取り早く確実に確認できるから、思い切ってその空間でベストな働きが出来るのだろうなと感じました。
また、ご自身の中で新しい挑戦を1つはいつもおこなうようにしているとの事です。それも、ただの一関係者としてに止まらず、自分の仕事に着目しても、演劇の時間を楽しいものと思える、大事な点だなと感じました。
色々冒頭で悩んだようなそぶりを記しましたが、
劇場から出ている「劇場職員の母校に行こう」という過去のコラムにある、伊坂さんへのインタビューの結論と同様に、一筋縄ではいかない人ということが、オンラインでお話しする中で、本当に身を持って面白く感じられた限りに過ぎないのでした。
物事に、依存はない、というすっきりしたところが、言葉以上に、信念の隅々にもずっとあるというのが、私の感覚との分水嶺になっているのだと、私の中では重ねて飲み込めもしました。その面を、どこでどう突いてみても、ブレず、理が通ってそうなのだと納得できたもので、変な方だなという感覚が都度強まったのでした。
舞台のクオリティを底上げする仕事をしたい、と向上意欲はギンギンに感じさせ、 (社会でどうこうというビジネスライクな生としてではなく)生きている事に対して天才的な人かのように思いました。
演劇だけが特別ではないし、つまり演劇は特別ではないし、きちんと仕事になるものなので、頑張っていきたいという旨の言葉は、生きる事の天才の言葉として、生涯私の中に残ると思います。
○井上瑠菜さん
ここまで色々な職員の深淵(?)を覗き見していこうという形でやってきたわけですが、井上さんには、明かりがよく差し込んでいて、そこで育つ精神的な花の管理も行き届いており、「とても自己肯定感が高いです」という台詞も何度か耳にしたくらい、(基本的に)澄んだ心の持ち主だなと感じました。
ご自身が主宰される劇団の露と枕での立ち振る舞い方もそうで、劇団員全員が根本からフラットな立場にいて、同好したものをきちんと負っていくという、当事者意識の集合体で成り立っているような、魅力的で本来あるべきようなあり方を継続されています。仲間、という言葉が、劇団員さんたちに対して、家族や同業者という言葉より、よほど的確に違いないと感じられるもので、
井上さんご自身も、みんながいなかったらそもそも劇団の旗揚げも創作し続ける事もなかったかもしれないから、すごく精神的にも実務的にもないとありえない存在だという旨をおっしゃっていました。
お話を聞くに、井上さんのいる場所は自然と井上さんのいやすいところになっていて、「恵まれている」という発言こそなされていましたが、
ご自身の人徳や物の考え方が自然に引き寄せてきた、半ば必然めいたところにいるのだろうなと、そういう事がありえている事に、勝手ながら微笑ましい気持ちにもなりました。
井上さんは常に、たくさんの選択肢を無理なく持っていて、その中で、井上さんがやりたかったり、いたいからそれを選んでくれたのだと、外からも明快にわかるわけですから、共に仕事をしていて気分が良いわけです。
創作の話においては、過程や結果、どちらかが必ずしも目的になるわけではないというか、純粋に、普段の自分とは外の、表現という事自体と付き合っているなと感じます。
そうであるから、井上さんは露と枕とは別ユニットの「なっぱのな」という個人ユニットでも創作なさるわけですが、
「露と枕にはみんなと作った「露と枕の作品像」というものが要素としてあるから、そうではない創作をする時には個人ユニットでやる」という旨をおっしゃっていて、
確かに作家として実験的なアプローチを掛けたい時に、無理に主宰劇団に当てこもうとする必要はないなと、生理的なところで理解できるなどがありました。
純粋な表現と、その居場所、井上さんの居場所というところがぐらつかずにある、環境を引き寄せていて、お話を聞いていて面白かったです。
嫉妬する事はあるとの事で、そういうところも息のしやすい、演劇ライフを歩まれているのだなと感じました。無理に負の感情を持ってはいけないというところはある意味でのマッチョさが必要になるのでしょうが、井上さんは行き詰まった時に「一旦物理的に休んで、その時1番自分が(色々な面で)何をしたいか考えて選択する」事で、その環境を違えたり汚してしまったりもしない、無理のない、出来る人だなと感じました。
○北川大輔さん
北川さんは先代の芸術監督、かつ現在は劇場の管理会社の取締役で、私が劇場に入ってからも、焼肉を奢ってくださったり、劇場でとてもお世話になっています。今でも、劇場での関わりが何度もある、劇場に愛情を持っているという事を、都度感じさせてくださる方です。
過去にはカブで1000km走るというガッツマンな企画を遂行していたり、インターネットにあがっている北川さんの創作期間の動画を見るなどすると、少年漫画の主人公のような、純真で熱血漢な側面も感じられます。
一方で、巧緻な、と表現するのが的確かもしれない、物事への解釈が絶妙で、よく表にも出ているように、運用を隙なくやられる方でもあります。
その懐の深さはというと、これまでの演劇人生からも見て取れ、大学の入学と共に演劇を始められた北川さんは、大学で「演劇」という場所にいると決めたら、それ一本で進んでこられたとの事です(大学の先生からは早いうちから「北川は演劇をやっていくんだもんな」という旨の事を言われていた程だそうです)。
そのうちに始められた劇団は、北川さんにとって運用しがいのある存在で、そのためにメキメキと作家としての頭角も現してきました。24歳の時には「MITAKA“Next”Selection」に若くして選出されました。そして、海外交流の物語を書く際にはそうした場に赴き、町の組合を舞台にした作品をつくる時にはそうした場に参加した経験を脚本の大元に据え、
説得力を裏打ちした制作で、ここまでずっと演劇サバイバーのような姿勢であられたのだなと私には感じられました。
逆境というか、状況を常に更新していこうとする、そうしたサバイバーなスタンスは今でも変わりなく、私から1回り年上な北川さんではありますが、
お話を聞く中で、(今、日本にいるというところもあり)確かに同じ目の前のものを見ている、という感覚も、しばしば受けました。
演劇は多様な背景を持った人たちが集まり、その中で1つの作品がつくられていく、結晶として宝石のような貴重なものであるという旨のお話もなさいました。また劇場は、そうした奇跡的な産物を、常に受け入れられる態勢でないとならないというお言葉も、私の中で強い理解とともに、今後の自分のあり方において、懐の深い、ユニークな指針を許してくれるもののように感じられます。
北川さんは私の思う「責任感」というものについて、真摯なファイトスタイルを持たれて死守しており、
それらのアクションは、演劇における仕事を、世の中で意味あるものとして成立させていくベクトルで続いていくもののように感じました。
ご自身も作家であり、劇団も休止中という形でありながら向かい合っており、オンライン上演という形もフレキシブルに、開発を進めた作品を、拳1つで世へ投げかけてみせます。
演劇と世の中、という構図、様々な要因の絡まり合っている厄介な課題に、
鉄道列車のように内内に盛る燃料をたぎらせながら、
しっかりとしたシステムで熱を処理し、
今なお、明日やその先へと、やさしく力強く猛進しているように思います。
花まる学習会王子小劇場にはWikipediaがあり、「キャッチフレーズは「たたかう劇場」」と記載されています。
世の中の変化とともにその具体的なオペレーションは変わるとしても、私が劇場に携わり始める時に胸にソッとしまい、持ち続けている「懐の広い」フレーズです。
北川さんのスタンスは、こうして交流があってより、敬意の深まるもので、
私には、知られれば知られるほど、心臓を熱くしてくれるものです。
屈託無く書かせてもらいました。
お話聞かせていただき、職員の皆さんありがとうございます。
これから皆さんに書いてはいけない事を書いていないかチェックしてもらうわけですが、書かせていただいてありがとうございますという言葉もここに刻んでおきたく存じます。
今回こういったご協力を皆さんに仰いだ動機としては、
なかなか職場では聞けない(けれどとても気になっていた!)一人一人の、私なりに思う素性について以前から興味があり、
ずっと(そして密かに)「飲みに行きたい!」「しかし、なかなか私めからお声がけするのも恐縮だ、お忙しいだろうし」と思っていたところから火がつきます。
そして「逆に今回のような機会なら、頼みやすいのではなかろうか?」と若手ながら思い立ち、(なかば強引に)皆さんに「ズーム飲みしたいです!」と相談したのが、事の発端でした。
また「ZOOM飲みしよう!」なんて言うのも、
普段だとなかなか「私のために時間を確保してもらうのも申し訳ない、大した話できないし……」と思っていても、「コラムに書くので、インタビューさせてください!」と言えば義が通りやすいので、そういう面ではこういう機会があって良かったです。最近はSNSでも、色々なオンライン飲み会を目にしたりするようになりましたね。
こうやってまた、自由にやらせてもらっているこの職場は、至極勝手ながら私には居心地が良いです。
もちろん、こんな機会でもなるべく真摯にありたいなとは思っていまして、ネット上にあがっている情報などを訊いてももったいないので、事前調査はそれぞれ済ませた上で、
このインタビューも、私なりに「皆さんと飲みに行きたい!」と「真摯にお話をお聞きしたい」という筋を自分なりに純粋に持ってみました。
なので、あまり書けないというか、ここには無いような突っ込んだ内容も、
どの職員も芯から面白い人たちなので、機会があったら是非お酒でも交えつつ、皆さんで直接お話ししてくださいねと思いながら書いていきました。
色々な考え方、仕事の仕方をしている人と出会えるというのも、私には演劇の魅力に思えてなりません。
とにかく、面白いのと、信頼が置ける面が共存している、同時代の表現者としてみても、とても居心地の良い方々です。
大変に魅力的な方々で、ここに今いられる人生で、本心より良かったと思っています。
クラウドファンディングの告知や佐藤佐吉祭2020延期に際して、
色々な人からの声明や姿が、劇場側へと見えていたと思います。
その内部の人たちがなかなかよくわからないと、応援しづらい面もあると思いますので、
このコラムが、ここまで読んでくださった方にとって、何かの誤解や一面的な見方を時に解消するような、そうではないにしても、窓のような役割を果たしたなら、私の至福です。
文責:平井寛人