【王子戯曲同好会⑤】不眠の時に不眠のまま読む本(劇場蔵書 [丹野久美子戯曲集])
vol. 41 2020-04-19 0
言葉が尽きないくらい思いが充満している体は、時に詩的に山程の文字を連ねる。この戯曲もそうしたひしひしとした、張り裂けんばかりの身に宿したエネルギーが炸裂した結果の文字群である。ここから丹野久美子という人が「眠れないことと不安」「理性に逆らう本能の奔放さ」に震えている人物であるのだと想起できる。
今回取り扱う「丹野久美子戯曲集」には意欲作2本が収録されている。そのいずれもに、不眠の予感を読者に芽生えさせる力学が生じている。
1本目の「眠れぬ夜の羊は少年」は、眠れない夜にボク達が羊を数えるという幼い日からの対処法に立ち返って、幼な心にボク達を惑わす、恋心や行き場のない自尊心を考えてみせる。この羊が、少女にとっての少年達であり、あとがきに記されている通り「己に潔く決して逃げることをせず、何より嘘のない不器用なまでのまっすぐな男」達であり、「およそ世間では生き方の下手な大物には決してなれそうもない、根情良しのお馬鹿さん」かつ(丹野久美子氏の)「男性に対する憧れのイメージ」である。これは2本目にも共通して、彼等が少女を惑わし、満たしていく。
2本目の「寝物語」では、「あやしいおじさん」が足され、常に夢を観ているのか現実にいるのか定かにならない現代人の状態を弓に、前世から繋がる恋物語を言葉で射抜いてみせている。時期としては1本目より先んじて書かれ、1本目の後に再演された台本が収録されているという、よりソリッドな形になった本作を拝読する事ができる。
氏の作品では、色々な夢(安易に要約すれば恐らく悪夢)が過去のイメージと重なり、言葉だけは滑稽に飾ってみせても「ぎょう虫検査に引っかかり苦しむ少年」や「だらしない女になれなかった、失恋の苦い思い出」「戦国の頃、兄に裏切られて死んだ弟」のイメージをを激烈に突きつけて読者のボク達が安住する事を許してはくれない。
どこまで行っても、コミュニケーション不全により抱えてしまう苦い思い出を、振り返ってしまって、彼等は恐らくどうにも出来ずに、自傷的でさえある自己犠牲の演技を綴る。痛ましい程の彼等の明るさは、次々とページを繰らせながらも、徐々に粘ついて本を握る手を(あるいは汗で)繋ぎ止める。
平仮名の多い文体である。大人の自身と切り離して、その失敗どおりの延長線上にあるのを嫌うようなスタンスである。何が言いたいのかというと、ボクは、これを教科書みたいだなと思ったという事である。演劇の、という事ではない。この戯曲”集”を通じて、自分の生活に今まで確かに隣接していた、そして何とか踏みとどまった痛みの先のロジックが、ありありと記されている。これを読んで、些か気が楽になった自分がいるという現象の整理を見直してきたのをここまででおこなった。
ボクは全集や戯曲集、フルアルバムといったものが好きである。作家の姿や、共通する思想のようなものが醸し出されてくるように思えるからだ。
ここは2曲、両A面シングルとでも言うように(まさに!)丹野氏の、作家の像がポップなキラーチェーンをもってスラスラと入ってくる書物であり、時代的にはネオ渋谷系の走りの頃とも言えるのだろうか、そうした混雑されたような具象が一定のビートで刻まれて否応なく流れ込んでくるジャンルの、記念物である。
過去のものではあるのだが、日本も男女もそう簡単には変わらねえんだなあという気概を、おりこうさんなボク自身に思わせる。
中でもこの戯曲集のヒットポイントは、ラストシーンになると訪れる涙の出てくるようなぶっ飛んだキレイな情景の事である。夢の果てに主要人物が死ぬ、たくさんの花が咲いたり、雪の死と咲きゆく桜が共に死にゆく精神的心中カップルの更なる輪廻転生が、この、人の、(ボクにとっての)くだらない人生というものを肯定してくれる。
「分かっている」なんて事をおちゃらけた登場人物は言わない。丹野氏の思想を最期まで体現してみせて、責任をもって分かったままに一身に死んでいくというだけだ。ボクは彼等が好きだ。彼等が彼等のうちであるうちに、友達になりたい。ボクもボクのままで、「分かっている」なんて知ったような事を言うのは金輪際やめにして。もう同じような失敗をしたくない、という古傷を、この教科書が、人文的な失恋ソングのように舐め付けて膿の生えないうちに癒やすのだ。
この古傷に跡は残るだろうし、悪夢みたいな日常は続くのだが、この事故や裂傷も本当の事であったのだと無理に自分を締め付けて考えなくとも、この本を読んでいれば(その面の)本当の事があると思えるだけ、充分にマシになった。
居場所の本である、それはあとがきを読む限り丹野氏にとっても、ボク達の居場所が創作によってなされている。
どこかに帰りたい、どこにもいないのをやめたい、という人は、時に、今の自分に合う戯曲を探すと良い。言葉端のニュアンスが、ある意味小説より適当であれ、自由で、リアルで痛快である。
圧倒的な傷は圧倒的な居場所で癒やすといいとボクは思う。自分を大切に、という人は、ライブ・コンサートや好きな漫画の舞台、握手会、気が合う所に行くと特に良い。
深めて特に文学と隣接しているのが、戯曲であり、「丹野久美子戯曲集」であり、ボクはオススメする。
逆に言うと、芸術に対してオススメ以外をするのは嘘にしかならないし、したくないので、オススメをする。
不眠や、コミュニケーションが上手くいかなくて勝手に傷ついた過去に、別のアミューズメント、オアシスだけでは、そこ自体の居場所にはならないだろうから。
人類総不在感の時代、人に厳しく人間潔癖症にあたるトゲトゲ人間化のご時世でもあると思うので、そこに不在しているのが、戯曲の有用性であるともボクは思うのです
明日もミラクルハッピーに生きましょう!
また何か読みます。ボクは戯曲を読んで浸って生きている。
戯曲、いつか触りたい時に、演劇が亡くなったり、若い演劇家の戯曲が生まれにくくなることは、生きづらさにも繋がっていやす。
何卒、このクラウドファンディングの事も、応援してやってください。
きっとこれから、世の中が良くなる時に、あなたの隣に演劇はあります。
平井