【王子戯曲同好会②】王子小劇場の蔵書「絵戯曲 マリーの一生」
vol. 24 2020-04-02 0
花まる学習会王子小劇場で職員をしている平井寛人です。劇作家として活動しています。
敬愛する劇場・劇作家の先輩の笠浦さんと、「戯曲同好会」というものをはじめてみました。
戯曲って案外面白いものです。日本である程度話題になるような戯曲は今までも読んできていましたが、
広く扱って読み始めてみると、戯曲の形自体に思いもよらない色々なものが詰め込まれていたり、近年になって更に面白く思えるようになりました。
僕はインテリじゃないので(農家の娘(高卒)と農家の息子(高卒)の下に生まれた高卒(大学中退)です)、
そのスタンスから小難しくなく、
僕が面白いと思った戯曲を紹介していけたらと思っています。
(普段知人の劇団に戯曲を提供したり、主宰する劇団でも演出家を外注したりする、戯曲を書くだけの事が多くなりつつある)劇作家の、
僕の血肉にもなっている本を、これからつらつらと紹介してまいります。
この花まる学習会王子小劇場には、
知らない方もいらっしゃるかもしれませんが、
多くの文献・戯曲が、来ていただいた方みなさんにお読みいただける状態で所蔵されています。
※演劇の雑誌なども各種取り揃えています。
こちらの本棚から数冊、これから紹介させていただきますので、
ご興味お持たれる戯曲がありましたら、劇場にいらした際に是非お手に取ってみてください。
※1999年 自費出版
西岡兄妹
『絵戯曲 マリーの一生』
本日取り扱う戯曲は、西岡兄妹さんの『絵本戯曲 マリーの一生』という、中編の戯曲です。
この本では、妹の西岡千晶さんが描かれた挿絵が散りばめられ、
(作風柄か)行間も豊かにあり、内容はともかく気軽に戯曲の世界に触れやすいかなと思い、今回セレクトしました。
※線が紙から自然に浮かび上がってくるような、力強いながら直感的な画風がこの挿絵の特徴かなと思います。
○登場人物○
マリー
マリーアンヌ
死体(狼)
女A(赤ずきんA)
女B(赤ずきんB)
大まかに物語を整理すると、
イマジナリーフレンドのような、自分自身と名前も容姿も似たキャラクター同士が喋り合い、時には禅問答のように疑問を投げかけてみては答えをはぐらかしたり、主客転倒する事もありながら、
女の子の誕生から、男との接触と別れ、母の死を通じてどこにも行けない独立した女としてある意味「死ぬ」までを描写した物語です。
挿絵同様に、読む人にとっては抽象的だと捉えられかねない物語だとは思います。
※マリーアンヌが昔唯一傷つけられ、愛した男がゴミ袋に入った死体となって投げ込まれるシーンの挿絵。
先にお断りすると、僕自身は戯曲を楽しもうとする時に、
「主人公がどこにいて、(どうやって)どこへ向かっていくのか」に注目しているように感じます。
この物語では、一幕でマリーが「ここはどこ?」と問うようにどこか定まらない場所から始まり、2人は語らい合う中で自分たちの行末を憂えて、
様々考えて理論武装した上で、その行末になぞらえた現実に直面して幕となります。
彼女たちがどのように(おどろおどろしい世界に投げ込まれるのに)備えていくのか、
ずっとドキドキしながら読み進めていきました。
その上で、
細部を読み進める時に、僕は「この作家は信用できるのか」という気持ちになることがあります。歌詞なんかにもそうなのですが、自分なりに読み解こうという時に、場繋ぎで使われた言葉であるかもしれないと思うと、途端に落ち着かなくなってしまいます。
この戯曲ではそんな事がないので、ご安心ください。
西岡兄妹さんは、
漫画家としてメインで活動されている方で、
(今回の戯曲とも同様に漫画の方でも)お兄さんの西岡智さんが文章と構成、
妹の千晶さんが作画担当で進められています。
今回選んだ「マリーの一生」では常に一貫性のあるモチーフが屹立していて、
それらは彼彼女らの漫画で扱っているテーマとも通じています。
大変寡作な漫画家さんなのですが、
最新作の『神の子供』(2010年)でも、この戯曲と同様に「母親の胃で育ち、生まれてくる事に不安感を覚えていた」「肛門から(卵のように)生まれてきた」モチーフが使われています。
「この作家さんはどういう事を考えているのかな(何を表現しているのかな)」という事も、
楽しむのと同時に僕達は考え込みがちですが、
西岡智さんの文章・構成ではその点、真摯に並べられているように感じます。例えばあとがきで
「現在、自然についても人間についても精神についても、間違いなく科学者が一歩リードしています。」
と言及されていて、作り手当事者の「理解」について訴えかけている節があるのですが、
この作品も、その「科学者」のように物語が構築されているよう感じます。
僕がスッとこの戯曲を受け取る事のできた一因です。
作家によって色々な書き方がありますが、この戯曲はそんな戯曲です。
内容について、
僕ら自身、「当たり前に受け取っているけど、それって本当なのかな?」とおくびにも出さなくても疑問に思う事がありますよね。
この本では、
メインの登場人物である「マリーアンヌ」と「マリー」がそこに立ち向かって、
彼女達なりの納得を得ていきます。
例えば、
マリー ナマエって何?
マリーアンヌ ナマエっていう名前の何か。
マリー ナニカって・・。
マリーアンヌ ナマエ。
マリー うん。
マリーアンヌ 人は名付け得ぬものを恐る。
マリー 故に名付ける。
間
マリーアンヌ 大丈夫ね。
特に観念的なところを抜粋してしまいましたが(汗)、
自身の生まれ、親への不信感を持つ彼女たちは、疑うところから始めて、自分の身を守っていこうとします。
それから、どこへも行けない自分たちを自覚して、
「つまんないね。」
「わたしたちは遊ばなくてはつまんなくて駄目だわ。」
という言葉・シーンを、演劇用語(?)のリフレインのように繰り返しもします。
物語を浮き彫りにさせて進展させるのが、
マリーアンヌが日記で創作する嘘の世界創生記であったり、赤頭巾について言及していくシーンです。
※マリーアンヌは自分と同じような人物である「赤頭巾」を捕まえる為の罠を設置します。
この赤頭巾と彼女達を同様に見るのは、この難解な戯曲でも分かりやすい現象です(また、この赤頭巾の話も戯曲では繰り返されます)。
赤頭巾を2度目に読み上げた時には、
「すると台所にいた小さな小猫が言いました。「このあばずれめ、お前のおばあさんの肉を食べ血を飲むなんて」」
という、自戒のような言葉が、新たに入れ込まれます(かちかち山のオマージュが入り込んでいる?)。
ここで、マリーアンヌが赤頭巾のように「無知」で生きて、どんな酷い事をしてしまうのか理解して、
マリーとの対話の中で、彼女が短い時間で変化した事が明確になります。
マリーアンヌはそれから、老婆が狼に食べられた後の話をしきりに気にします。
マリーアンヌ 赤ずきんちゃんは終わっちゃったの?
マリー ずっと前にね。
マリーアンヌ 猟師と結婚したんだっけ?
マリー 知らない。
マリーアンヌは、「結婚」という、シンプルには幸福として現代でも受け取りづらいが、希望的な見通しとして、自分と同じような赤頭巾の未来を気にします。
それが希望的なものであれば良いな、という展望を女の子らしくいじらしく滲ませながら。
最後に取り上げる点です。
彼女達のもとにやがて、大きく2つの死体がゴミ袋や棺桶に入った状態で運ばれてきます。
1つは、マリーアンヌが愛しきれなかった、好きだったのだろう男の死体です。
男は死んでも(ゴム製の)性器を起立させるなど、マリーアンヌにとっての愚かで恐ろしい男の姿のまま、鑑賞対象として対話部屋の、鍵が掛かっているらしい扉の向こうから送り込まれてきます。
マリーアンヌは死体を見て涙を流したり、死体を蹴り続けるなどします。
そうしてまた、不安定そうに自身の行末が心配になりーー考えたくなり、赤頭巾の(今度は食べられたおばあさんの)顛末を気にするなどします。
上手くいかない人生の、非力さを連想させます。
もう1つは、母親です。
このあたりから、マリーアンヌとマリーはお互いを罰するような言動を始めます。
マリー 名付け得ぬものを名付ける、故に・・・。
マリーアンヌ もうやめて
鐘の音がやむ。二人、扉の前に立ち正面を向く。
マリー マリーアンヌはひどい女だ、寂しいからわたしの目を覚ましたひどい女だマリーアンヌは。
マリーアンヌ マリーはひどい女だ、寂しいからわたしの目を覚ましたひどい女だマリーは。
マリー マリーアンヌはひどい女だ、寂しいからわたしを生まれさせたひどい女だマリーアンヌは。
マリーアンヌ マリーはひどい女だ、寂しいからわたしを生まれさせたひどい女だマリーは。
マリー マリーアンヌはひどい女だ、寂しいからわたしの目を覚ましたひどい女だマリーアンヌは。
マリーアンヌ マリーはひどい女だ、寂しいからわたしを生まれさせたひどい女だマリーは。
マリー うん・・・でもしょうがない
マリーアンヌ みんなお前が悪いんだよ。
マリー うん。
マリーアンヌ みんなお前が悪いんだよ!
それから二人は呆然と立ち尽くしてしまいます。
僕が思うに、
人は自分の中に、幾つかキャラクターを作って、使い分けていると思うのですが、
例に漏れずマリーアンヌもマリーも、同じ一人の女性の中にいる、
どちらかを殺す生かすという選択肢さえ持たれている、現代的な非常に不安定な人格なのでしょう。
そうして、黒い布を被せられた棺桶に入って、母の死体が運ばれてきます。
※謎の2人の女が棺桶を運んできて、棺桶を担いで扉から出ていきます。
2人は、予感していた、今とは別の新しくセンシティブな局面に曝されたのを、理解したような、落ち着きを得ます。
マリー わたしは?
マリーアンヌ わたしたちはいいの。
マリー うん。
マリーアンヌ わたしたちはもうどこかで始まっているから・・・。
マリー うん。
マリーアンヌ わたしたちはもう、わたしたちと関係のないどこかで、もう始まっているから、わたしたちはもうどこにも行かないの。
受け入れるしかない現実(の時間)に向かって、
マリーアンヌとマリーは、
自分たちの吐いた嘘も抱えて、どうやって生まれたのかも曖昧なまま進んでいきます。
そうしてずっと、椅子に座って待つように、2人は突き進んでいくのでした
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うーん、読まないとなかなか、この読後の感動は共有しづらいですね!
ある意味、僕ら現代人は自閉的に、
色々な事と接しているふりをしながら、自分の思想の安全地帯から生きる時間を送っていっています。
そういう人物・女性の、1つの失敗譚として、
この戯曲を読み込むと明快でフランクに楽しめるのではないかと思います!!
末筆ながらまた、「こんな面白い本あるよー」なんてありましたら、是非教えてくださると嬉しいです(もちろん劇作家の方々はご自身で執筆されたものでも大大歓迎です)!
これからも王子戯曲同好会の今後を、気にしてくださいますと嬉しいです!
クラウドファンディングもよろしくお願いいたします!(平井)
P.S.
笠浦さんから、前回紹介なされていた別役実「虫づくし」を借りて読み始めています。浅学なので初めて目にした本だったのですが、「もっと早く出会えておけば良かった!」なんて感じました。このシリーズのコラムでも、誰かにとってそんな出会いがあれば良いななんて感じます。
後日「虫づくし」についても、この追伸くらいの規模感でさらっと感想を書けたらと思っています。