【王子戯曲同好会①】別役実を読もう!
vol. 23 2020-04-01 0
劇場職員の笠浦です。仲良しの後輩、平井君と 「戯曲同好会」というものをはじめてみました。ぬるいサークル感覚で頑張っていこうと思います。
さて、3月10日のニュースで、別役実がもうこの世界にいないことを知りました。謹んでご冥福をお祈りいたします。
こういった世情では、頼りになりそうなものに一層寄りかかりたいと思うものですが、寄りかかるべき電信柱を無くしたような気持ちになりました。しかも本当は別役実は3日には亡くなっていて、一週間もその不在に気づきもせずに過ごしていたかと思うと、寂寥感も肩透かしを食う思いであります。
中学生の時も高校生の時も大学生の時も今も、別役実が好きで、私がいまこんなに演劇を好きでいられることのきっかけに間違いなく別役実がいるのです。
とはいえ、別役実がいなくなってみてはじめて、別役実という人を知った人もいると思います。別役は劇作家ですが、戯曲に限らず本がたくさん出ているので是非これを機に関心をもっていただければと思います。(別役は多作の人で戯曲だけで144本も書いています。私こそは別役よりもたくさん書いてやるぞという気持ちだったので、目標に歯止めがかかってしまって本当にさみしいです)
家にいる時間をもてあます方もいらっしゃるでしょうし、大変僭越ながら、1ファンとして、別役実の本を何冊かご紹介したいと思います!
遠い昔の夏の日に、実家の二階の北向きのクーラーのない部屋で立ったまま、ぽたぽた汗を落としながら、別役実を読みふけっていたころを思い出します。次のページは、次のページは、とめくっていて、おやなんだかうまく文字が読めないなと思ってふと目を上げると、もう日も暮れてあたりは真っ暗だったのでした。
『虫づくし』
いきなり戯曲じゃなくてごめんなさい。あと、写真がすごく下手ですね……。
これがどういう本であるのかを説明するのは難しいのですが、ジャンルでいえばエッセイ、あるいは評論になるのでしょうか。ビアスの「悪魔の辞典」を知っている方なら、それが一番近いと思われます。
様々な虫について、各5ページ程度の解説や考察が行われている、それだけの本です。別役には「づくし」シリーズとも言われる、こういった著作が何冊もあって(「鳥づくし」とか「けものづくし」とか「さんずいづくし」とか「当世・商売往来」とか「日々の暮らし方」とか)、 この虫づくしがづくしシリーズ初めの一冊であり、原点であると思っています。
ためしに、最初の項目である「水虫ついての考察」の冒頭部分を引用します。
水虫は宇宙から飛来せる知的生命体であるという。
さて、東北地方の一寒村に
一部水虫の全く棲息しない地域が発見されて……
そのつぎの項目はたむしです。こちらも冒頭のみ引用します。
我々はたむしにたかられると
みずからの実存をおびやかされる様な
根源的な不安の中に閉ざされるのである。
例の「たむし殺人事件」はそうした事情からおこった。
だいたいこういう調子です。ほら話の羅列と言ってしまえばそうなんですが、その荒唐無稽な文章は学術的でもあります。深い感動に包まれるとか、考えさせられるとかでは全くなく、これを読む時間は人生にとって無意味といってもいいかと思います。内容についてはもうこれは、「なんで?」とか「どういうこと?」とかではないのです。だからこそ別役を、不条理を、よく知らないぞという人にはまずこの本を入り口にしてほしいのです。 「ナンセンス」が何であるのか分かった気に少しはなれますし、なにより重要なことですが、それが可笑しい、面白いんだということが分かります。
私はこの本を読むのにとても時間がかかっています。中盤あたりからだいぶ読み進めるのがもったいなくなってきて、少し、また少しと惜しみながら読んだものです。
15歳くらいのころでしょうか、私は本の虫で、与謝野鉄幹の「人を恋ふる歌」の「友をえらばば書を読んで六分の侠気四分の熱」に感化されて、そのような友達が欲しいものだと思っていました。そしてそのような友達ができた暁には、ぜひとも『虫づくし』を貸すのだと、そういう夢があったのです。
私はその夢をしつこく持ち続け、ついに実家を出るときに、母の蔵書であったこの本を勝手に持ち出してきてしまったのでした。お母さん、すみませんでした。
『壊れた風景/象』『マッチ売りの少女・赤い鳥の居る風景』
別役戯曲については、たくさんあるしみんな好きなものを読めばいいじゃないかとは思うのですが、以上のそれぞれ二編の戯曲の収録されたこの二冊については、
『壊れた風景/象』…読みやすい文庫サイズ
『マッチ売りの少女・赤い鳥の居る風景』…岸田戯曲賞のお徳用パック
ということで選んでおります。
別役を語るならこのあたりの戯曲は必修といってもいいと思うので、あえて長々した解説は控えさせていただきたいと思います。なんだかえらそうにすみません。
とても有名な戯曲なので、ちょっとググるだけでいろんな解説が出てくるとは思います。別役が満州生まれであること、戦争ということや戦後ということ、また「マッチ売りの少女」については天皇制などが読み解くカギになってくる、みたいなことを言われることは多く、またその指摘はもっともなのですが、私はそういった理解が必ずしもなくてもいいんじゃないかと思います。
このなかでは「象」が、誰でもはっきりと戦争の面影をみることができると思いますが、もし、これを原爆文学だと思って敬遠されている方がいらっしゃるなら、ぜひ偏見を捨ててご一読願いたいです。
高校生の私が衝撃を受けた、「象」の一番最初のモノローグを以下に引用します。
男 皆さん、こんばんは。
私は、いわば、お月様です。
お空にまんまるの
あるいは……。
あるいは、おさかなです。
いわば淋しいおさかな。
例えば、私はよく涙を流します。まるで、とめどもなく……。
つまり、私にとってみれば、哀しい時に、涙を流さないなんて、万が一にも考えられないのです。
私の涙は、細い白い糸のように、暗い深い方向へ、私をサカサマにする方向へ、流れています。だからもしかしたら、私は涙にブラ下がったおさかなです。
モノローグはもう少し続くのですが、私はこんなに美しい日本の演劇のモノローグをいまだに知りません。ラストもモノローグで、それがまたすごくいいんですよねえ。
『移動』
これも戯曲ですが、上記作品に比べるとややマイナーといえるかもしれません。これを手に入れたのはわりと最近のことで、たしか神保町の古本屋で買ったのです。私はとても好きです。
別役といえば電信柱と決まっています。あらゆる作品に、舞台美術としてやたらと電信柱が出てくるのです。(こういう別役作品にありがちのアイテムとしてほかにコウモリ傘、ポスト、乳母車などがあります。)
『移動』は、この電信柱の存在を味わうのに最も適した戯曲であると思います。
舞台上には電信柱一つが立っているのみです。
お話としては、家族が、電信柱が等間隔に立っている長い長い道をひたすら移動しているというもので、シーンごとにその地点は異なるのですが、そのことが、舞台上の電信柱のちょっとした張り紙などの違いによって表現されています。
その旅の、のどかなはじまりと壮絶な終盤は息をのむほどで、徹底して乾燥した空気が強く感じられます。月並みな感想ですが、人類の道行きに思いをはせつつ、非情な不条理の世界を旅することができます。
『風の研究』
むしろ、このあたりは別役を知る方であっても未履修の方が結構いると思うので詳しく紹介したいです。これは6編の物語と2編の子供向け戯曲の載った童話集です。
別役童話は最高なのですが、それは「童話って大人が読んでもいいものだよね」的なことではなく、「自分が、子どもほどこの物語を読みこなせていない可能性に気が付いて戦慄する」的なことです。当然、「友情の大切さ」とか「あきらめないことの尊さ」みたいな教訓とは一切無縁です。ぜひ読んでほしいので、最初の二編の童話について、あらすじをここに記しておきます。
「風の研究」
風の研究をしている「私」のもとに、探偵のアルバ・アナ・ヤナバ氏がやってきます。彼は、イズ・マズレ・ターンという猫を探してほしいという依頼の手紙を持っていました。その手紙は確かに「私」が出したものらしいのですが、「私」にはそんな手紙を書いた覚えもなければ、イズ・マズレ・ターンなんて猫は知らないのでした。ともかく、きっとこれはイズ・マズレ・ターンという猫が探されたがっているに違いないと考えて、二人は探しに行きます。
「マヨネーズのように哀しい」
アネノイド・ハネノイド博士は、ハリーナ・マリーナさんという許嫁を街に残したまま、ローデン・コーデンの高原の研究室にこもっています。博士の研究は「寒冷地高原みみずにおける文章修飾法」というとても難しいもので、その研究に27年を費やしているのでした。長年かけて寒冷地でみみずを見つけることに成功した博士は、今日もみみずの言葉を探して、研究室で一人みみずに話しかけるのでした。
両編ともに、子ども向けの物語が、こんなにも悲しくていいのか、というくらいの読後感になっております。ひさしぶりに読み返してみて、この「マヨネーズのように哀しい」のあと辛くて一度本を閉じました。私がまだ12歳であったなら、セリフの可笑しさに笑って読めたかもしれないのですが、28歳のいまでは実存の不安で泣きそうです。
とくにナンセンスというジャンルにおいては、子どもの理解力は、大人のそれをはるかに上回ることがあります。私も子ども相手の演劇ワークショップなんかをすると、そのことを強く意識します。
別役の童話のすばらしさは、子どもという読み手への圧倒的な信頼に立脚していると思います。
『さらっていってよピーターパン』
これも子供向けの戯曲集で、「さらっていってよピーターパン」「飛んで 孫悟空」「夜と星と風の物語」の三編が収録されています。
私が21歳のとき、演劇の脚本を書く仕事をするのだと心に決めて、新宿紀伊國屋書店で「脚本の書き方」的な本を予算の許す限り買いました。その中の一冊にこの本があったわけです。
そして、はっきり言って、その時買った本の中で一番役に立っていないのがこれです。そもそもハウツー本ではないっていうのもあるのですが、別役から何かを学ぼうとか盗もうとかはちょっと無理な話でした。
それでも眠れない夜には、たまにこの本を引っ張り出して読みます。そして、おなかに時計の入ったワニとか、手紙を食べるらくだがちゃんとそこにいるか確かめるのでした。何を伝えたいとかでもない、特にやさしいわけでもない物語が、こんなに救いになるのは、本当にどうしてなんでしょうか。
以下、この本のあとがきからの引用です。
演劇というのは、最も素朴な「人間的な営み」である。つまり、拡大やコピーもできないからこそ、「人間的な営み」であることをはみ出さないのであろう。
別役実がこのあとがきを書いたのが2010年で、現在までの約10年にも本を出したり、闘病生活中にもかかわらず新作戯曲を発表したりと、その旺盛な創作に対し、あらためて深い敬意を表します。
またそんな同じ10年の間に、私は東京で一人暮らしをはじめ、数年前友達が一人できました。彼はまさによく「書を読んで」いるし、「六分の侠気」と「四分の熱」を持ち合わせているのでした。しかし思えば、彼に『虫づくし』を貸したことはありません。彼は、借りた本は返す奴だし、十分に知的で、よもや私を傷つけるような感想を言ったりはしないと思うのですが、今思えばどうして、『虫づくし』を貸していないのでしょうか。
もしかしたら、こういう種類の夢というのは、たまに思い出してみては、また大事にしまっておくような、そういう形で持ち続けていたいものなのかもしれません。
ただ私がそうやってぐずぐずと小さな夢を捨てずにいる間に、ついに別役実のいない世界まで来てしまったようです。これを機に思い切って、誰でもいいから貸してみようと思い、先程、(同好会の唯一のメンバーである)平井くんに貸しました。快く借りてくれたわけですが、こちらとしてもとても思い入れの強い本なので、やや緊張しております。果たしてこれで平井くんとの絆が深まるのか、あるいはこれを持って同好会は解散の運びとなるのか、彼の読後の反応が待たれるところです。
同好会の存続の行方はさておき、どうぞ引き続きクラウドファンディングをよろしくお願いいたします。