コラム-6 「ストラヴィンスキーと《火の鳥》の誕生」
vol. 6 2017-12-27 0
残り2日となりました。
ロシア音楽の魅力をお楽しみいただけるCDの制作は決定しました。
さらに「こってり、みっちり」お伝えしたい。
お礼の特別番組生放送を目指しています。
特番生放送の決定まであと3万円!ラストスパートの伴走をよろしくお願いいたします。
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ストラヴィンスキーと《火の鳥》の誕生
身体の色を鮮やかに変える動物にカメレオンがいます。
まるでカメレオンのようだと言われるほど、めまぐるしくその音楽の作風を変えたロシアの
作曲家がいました。それがイゴール・ストラヴィンスキー(1882〜1971)です。
あるときは力強く野性的な音楽(=原始主義)を、あるときは伝統を重んじた古典的な音楽
(=新古典主義)を、そしてまたあらゆる時は、音列をたくみに操作する最新のスタイルの
音楽(=音列主義)を書いた作曲家です。
ストラヴィンスキーは、ペテルブルグの歌劇場で主役級の大物バス歌手であった父のもとに
生まれました。音楽に関心を寄せながらも大学は法学部に入り、作曲はかの「五人組」のひとり、リムスキー=コルサコフに6年ほど個人的に弟子入りして学びました。
その頃から交響曲変ホ調 op.1(1907)などを通じ、若き作曲家ストラヴィンスキーの才能は徐々に知れ渡っていきました。
さてその頃、ロシアにはその後のバレエ界を大きく変えた名プロデューサーが誕生しています。ロシア・バレエ団(バレエ・リュス)を創設したディアギレフ(1872〜1929)です。
ストラヴィンスキーより10歳年上の彼もまた、リムスキー=コルサコフの門下生として音楽家を
目指していましたが、彼は芸術的視野を絵画などへも拡張し、両親の遺産が入ったこともあり
パリへと進出。 大規模なロシア音楽のコンサートをパリで成功させて、興行家としての道を
歩みだしていました。
そんなディアギレフの目に、ストラヴィンスキーの才能が見出されました。師匠リムスキー=コルサコフの娘の結婚式のためにストラヴィンスキーが書いたオーケストラ曲「花火」(1909年初演)が二人を繋いだのです。そして、かのバレエ音楽の名曲《火の鳥》が誕生することになりました。
もともとこのバレエ音楽は、ニコライ・チェレプニンという作曲家が音楽を手がけるも途中で破棄される結果に。続いてリャードフ(コラム vol.3に登場)に依頼されましたが、承諾が降りずに計画が進まずにいました。そこでディアギレフは、若きストラヴィンスキーに白羽の矢を立てたのです。
1910年、ストラヴィンスキー28歳のときにパリで初演されたバレエ音楽《火の鳥》は大成功を収めました。ロシア民謡風の旋律がオーケストラで鮮やかに奏でられるこの曲には、師リムスキー=コルサコフの影響が見られます。
このバレエのお話は、ロシアに伝わる古い民話に基づいています。魔王カスチェイに捕われていたツァレヴナ王女は、イワン王子と出会って恋に落ちます。しかし、イワン王子もカスチェイの手下の怪物に捕らえられてしまいました。魔王カスチェイがイワン王子に悪い魔法をかけようとしたその時、火の鳥が姿を現します。それは、かつてイワン王子が命を助けた火の鳥でした。今度は火の鳥が王子を助け、魔王カスチェイを滅ぼし、ツァレヴナ王女とイワン王子はめでたく結ばれるのでした。
ストラヴィンスキーは、バレエのために作った音楽の中から何曲かを選んで、組曲にまとめました。なかでも魔王たちが踊る「凶悪な踊り」は、この作品のクライマックスといえる力強い音楽です。コンピレーションCDにはこの曲を収録予定です。
さて、翌1911年には、やはりバレエ音楽の《ペトルーシュカ》でストラヴィンスキーは作曲家としての成功を確固たるものとしました。さらにその2年後、1913年に発表したバレエ作品《春の祭典》は、その内容が大地に生け贄を捧げる恍惚とした儀式であり、複雑で刺激的なリズムに満ちた音楽は原始的であると同時に前衛的で、パリの聴衆が賛否の怒号を闘わせるというセンセーショナルな初演となりました。上記3つのバレエ音楽は、彼の代表作です。
ストラヴィンスキーは第一次大戦勃発後の1914年には祖国ロシアを離れてスイスに暮らし、1920年にはフランスへと移住、さらに1932年には第二次大戦を逃れてアメリカへと渡ります。時代の波にもまれるようにしながら、彼の音楽の作風も目まぐるしいまでに変貌を遂げました。フランス時代には「新古典主義」という、客観的で秩序だった古い音楽を理想とした境地に
立って、バレエ音楽《プルチネッラ》(1920)や《詩篇交響曲》(1930、合唱付きの交響曲)
を発表。
アメリカで過ごした晩年には、「音列作法」というヨーロッパの最新の作曲技法も果敢に取り入れ、ピアノとオーケストラのための《ムーヴメンツ》(1959)や、《レクイエム・カンティクルス》(1966)などの宗教的な作品も残しています。一生の間に原始主義、新古典主義、音列主義と様々な音楽語法を手掛け、「カメレオン」とも称されたストラヴィンスキーは、時代の流れを体現した作曲家と言えるでしょう。