【応援コメント12】ライター/編集者・小柳帝さんからコメントいただきました!
vol. 25 2024-10-03 0
斉藤さんと初めてお会いしたのは、忘れもしない、今はなきタワーレコード渋谷店地下のカフェでした。確か1997年のことだったと思います。斉藤さんが責任編集という立場で、当時創刊準備号(0号)を出していた「ウィアード・ムービーズ・ア・ゴー・ゴー」という映画雑誌を手伝って欲しいとのことで、わざわざ関西から会いに来てくれたのです。
その時は、もう斉藤さんのことは知っていました。映画評論家として彼が書くものもさることながら、当時のピチカート・ファイヴのライブにおける、あのgroovisionsによるクールで最高としかいいようのないVJで、古今東西の映画のフッテージをカットアップした映像のパートを担当していたのが斉藤さんだったからです。そこからもうかがえる彼の圧倒的な映画に対する知識には、まさに舌を巻くような思いでいました。
ミルクマン斉藤。何とも人を食ったようなその名前に、初めどんな人物が現れるのだろうと、少し訝るようなところもなくはなかったのですが(笑)、会って話をしているうちに、そんな気持ちはいつの間にかなくなっていました。同い歳ということや映画の趣味も近く、すぐに意気投合しました。
いや、打ち解けた理由は、それだけではなかったかと思います。私は、その少し前まで大学院にいて、さる高名な映画批評家の指導を仰ぎながら映画を学び研究する、いわゆる「シネフィル」界隈にどっぷり浸かっていたのですが、そのシーンのあまりの作家主義っぷり(その界隈でダメな映画作家だと烙印を押されると、その作品はすべて否定されるどころか、鑑賞されることすらない)に少し息苦しさを感じ、大学院も修士までで卒業し、在野に出て活動していたのですが、斉藤さんもそうした界隈の映画への接し方に、私と同様、違和感を感じていたのでした。
また、当時のシネフィル界隈は、フィルム至上主義のような考え方に支配されていて、ビデオでの映画鑑賞を真の鑑賞と認めない、あるいは下に見るというところが多分にあったのですが、私も知らず知らず、そうした考え方に染まってしまい、ビデオでしか観られないものを後回しにする傾向があったのです。ところが、斉藤さんは、タランティーノのようにレンタルビデオ屋で働いていたこともあってか、ビデオ鑑賞に抵抗がないどころか、貪欲に海外の海賊版にまで手を伸ばし、私が名のみしか知らないような映画もよく観ていました。
また、様々な映画をそれだけ観ているだけでなく、その背景的知識もハンパないのです。その辺のシネフィルや映画研究家も、はだしで逃げ出すほどの博覧強記ぶりでしたし、そのフィールドは映画のみならず、音楽やアート、デザイン、文学などにも及びました。また、それをポップに語る軽妙な語り口。それは、彼が書くものだけでなく、トークにも及びました。そして、斉藤さんは、いつの頃からか、あのピンクのスーツを身に纏って、映画の伝道師とも化していったのです。
私は、そんな斉藤さんと、「ウィアード〜」や、後の「シネ・リラックス」(「relax」という雑誌での試写会付きの映画紹介ページ)を手伝うだけでなく、様々な媒体やパッケージ仕事、またトークイベントなどでご一緒しました。
斉藤さんは、一時上京を考えられていたこともあったようですが、結局は関西から出ることはありませんでした。そんな斉藤さんが、イレギュラーな仕事以外で、東京に毎年必ずやってくるのが、東京国際映画祭とフィルメックスの時でした。その際、情報交換などしながら映画談義に花を咲かせるのですが、それが映画祭そのものに負けず劣らず、楽しく価値ある時間だったと思います。特に、後年は、同年代のアジア映画や日本のインディ映画の鑑賞に力を入れ、作家たちの応援もしていました。
今となっては、そんな茶飲み話でも録音しておくべきだったかなと思うくらい、その時々の会話は濃密で深いものだったと思います。そんな斉藤さんの映画についての該博な知識や鋭い見方は、今となっては彼が書き残したものを辿るしかありません。残念ながら、斉藤さんは生前、単著を残していないので、様々なところで書き散らした(失礼!)原稿をまとめて読むこともままなりません。それを纏めるのは、気の遠くなるような作業ではないかと思いますが、それが今、斉藤さんの仕事を後世に伝えようと思う熱意のある方々の手によって果たされようとしています。
断言します。ミルクマン斉藤は、私の知る最高の映画評論家であり、映画ライターでした。斉藤さんの映画に対する知識、見方、センス。そのどれをとっても後世の映画ファンに伝えるべきものかと思います。そして、その本を真っ先に読みたいと思っているのは、ほかならぬ私でもあるのです。