【ルンタWEB通信005】「涙をチカラに」 13歳で売られたゴマ・ライさん後半
vol. 6 2018-04-06 0
【ルンタWEB通信005】「涙をチカラに」 13歳で売られたゴマ・ライさん・後半
ルンタプロジェクト代表 : 中原一博
半年後の1996年のこと、ムンバイ警察がカマチプルと呼ばれるその有名な娼婦街にはじめて大規模な手入れを行った。その結果およそ500人の人身売買被害女性が解放された。そのうちネパール人が128人いた。私もその一人だった。私はそのころ身も心も衰弱しきっており、意識も朦朧としていた。だから、その時救われたことは自分の命が救われたのに等しかった。
ネパール政府は最初自分たちを受け入れたくない態度を取り、結局6ヶ月さらにインド政府の施設に暮らすことになった。ネパールに帰った後CWINという福祉団体に引き取られた。私は出身の町の名が言えるだけで、家族が同定できず、会えないままだった。4年間そこで暮らし、カウンセルを受け、学校にも通いはじめた。初めて自分の名前を書くことができた時の喜びを思い出す。それから勉強も好きになり、人生がやり直せるんだと思えるようになっていた。
しかし、4年後に受けた血液検査で自分はHIVポジティブと言われた。そして、その時医者から「5年くらいの命だと思うように」と告げられた。私は希望を持ち初めていたところでもあり、突然死を前にし、ひどく苦しんだ。そのころはまだHIVの薬は高価で貴重だった。薬を飲み始めたのはそれから数年たってからだった。
CWINの人たちはとても優しかった。私を家族のように思ってくれていた。私は再び苦しんだが、みんなの愛を感じることで、ムンバイとは違い、立ち上がることができるようになっていた。二十歳を過ぎた頃には、同じHIV感染者である男性を好きになり結婚した。しかし5年後に別れた。
ネパールでは自分たちのような売られた女やHIVへの偏見、差別がひどい。同じ被害者たちを救い、守るためには団結が必要だった。そこで、ムンバイで一緒に救出された女性たちと一緒に人身売買被害者支援団体であるシャクティ・サムハを立ち上げた。
そこでアメリカからの支援として「人身売買+HIV/出稼ぎの夫から感染した女性」を対象とするプログラムがあり、それを担当する機会があった。その時の経験から自分の将来の道はこの人たちを助けることだと思った。そして、2003年にこのような女性と子供を支援する団体として「シャクティ・ミラン・サマージュ」を立ち上げたのだった。
シャクティ・ミラン・サマージュ
http://www.shaktimilan.org.np/index.php?route=comm...
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