羽根木プレーパーク プレーリーダーハウス 始まりについてのよもやま話①
vol. 18 2021-07-22 0
クラファン開始から1ヶ月が過ぎました。8月初旬のリーダーハウス解体に向け、現場では引越し作業が完了し、仮事務所での運営がスタートしています!(こちらの現場レポートは後日改めてお伝えします(^∇^))
本日は、羽根木プレーパークの初代プレーリーダーで、現在はNPO法人プレーパークせたがやの理事である天野秀昭さんの「プレーリーダーハウス 始まりについてのよもやま話①」をお届けします。
リーダーハウス建設の風景。ログを組む天野さん(1989)
※注 これはすべて天野秀昭の記憶に基づいたもので、誰が何と言おうと書き換えるつもりはないものです(^▽^) 2021.7.6~9記 天野秀昭
子どもには、原風景と原体験が不可欠だ。原風景も原体験も、時としてその子の生涯を支えるものとなるからだ。プレーパークにおけるプレーリーダーハウスは、プレーパークの中でも最もそうした性格と機能を持ったものでありたい。これが、今のプレーリーダーハウスを建てる上での基本的なコンセプトだった。
〜前史〜
1982年に竣工したリーダーハウス1号
1982年に竣工した、プレーリーダーハウス(以下、PLH)1号。桜ケ丘冒険遊び場の時代からかかわるボランティアで建築家になった人(片桐龍平)と羽根木プレーパーク(以下羽根木、PP)になってから来出した大学の建築学科の学生(深沢芳郎)が中心となって、今のそらまめハウスより少し坂の上、水道があるあたりに建てた。縁石をそのまま置いて基礎とし、杉の柱組で建てた8畳の建物はわずか6年で基礎部分が腐りだし、危うい状況となっていた。来年度に迎える10周年。その記念の関連事業としてPLH建て替えは一大プロジェクトとして動き出した。
2代目リーダーハウスのデザインコンペの様子(1988.6)
なるべくみんなの関心を得て協力してもらわないととてもできないと、その機運を高めるために行ったのが、コンペ、だった。子どもや大人から20点以上の応募があったが、審査には建築家やまちづくり(まだいわれだしたばかりの専門職)、造園家などそうそうたるメンバー5人に当たってもらい、しっかりと会議室を借りて公開審査を行った。専門家票と一般票、その総合で選ばれたのが当時V365で羽根木PPに常駐していた三村壮吾(通称くろぼー)の作品だった。ただ、他の作品のアイデアにもおよそ捨てがたいものがたくさんあり、要素としてそれらは取り入れることにした。
くろぼーの作品を中心に様々な要素も書き込んで建築可能な形でパースを描いたのは、当時プレーパーク事業の担当となっていた天野秀昭(通称かっぱ・ぼくです)。それを実行委員会(現世話人会)で決定し、ぼくがさらに寸法を加えた詳細を図面に起こした。でも、天野だけでは心配なので、桜ケ丘時代から遊び場に通う建築士、三浦幸雄(通称つるとらまん)にチェックしてもらい、図面は完成した(直しは基礎の数だけだった!)。
〜子どもへの挑戦〜
リーダーハウス1号の屋根からジャンプして遊ぶ子どもたち(1985)
図面を引く前に決めなくてはいけなかったのが、1号と同じく柱組(日本家屋形式)とするか、それともアイデアに上がっていた丸太づくり―ログハウスにするか、だった。ログハウスタイプは魅力的だが、経験が全くない。果たしてどうするか。そんな相談をしていた時のこと、小学6年の、いつも唯我独尊の態度のやんちゃな坊主がやって来た。
「何話してんの?」
「今度、リーダーハウス建て替えるんだよね。で、どんなものにしようかと思って。ログハウスも考えてるんだけど・・・」
「ログ?お前たちにできっこないじゃん」
「やってもないのに、なんでそんなこと言えんだよ」
「だってお前たちだろ。無理に決まってるじゃん!」
彼のこの言葉で火が付いた。
「やってもないのに「無理」? 上等じゃん、作ってやるよ!!」
今のログハウスタイプのリーダーハウスは、やってもいないのに「無理」だという、その子どもの態度への挑戦から生まれたのだった。
~丸太vs人力〜
長野の古電柱がリーダーハウスの骨組みに。地域住民総出での荷下ろし(1988.4)
新しいPLHはログにする、そうと決まればその建築方法を徹底して調べだした。当時、ネットなどないので、関係書物を漁った。結果、新しい丸太を使うことはほぼ不可能だろうと結論付けた。新しい丸太は、最高で20パーセントほども縮むらしいことが分かったからだ。つまり、建てる上では乾燥した時の縮み具合を計算しておかなくてはならないし、乾くたびにメンテナンスが必要となる。これは初心者にはきつい。そこで、乾ききった丸太、電柱の古材に目を付けた。若い人は丸太の電柱など知らないかもしれないが、1988年当時ももうすでに探すことは特に東京では難しくなっていた。
リヤカーを駆使して100本の丸太を人力で運ぶ(1988.4)
1984年、羽根木プレーパーク実行委員会が自主的に雇用した最初の専属の常駐プレーリーダーである木下勝夫(通称きの)が、出身である長野県塩尻市の知人のつてで問い合わせると、NTTの電柱があった。下見に行き、100本を確保した。一本2000円(100本で20万)。けれど、最長で9メートルもある電柱はとても自分たちでは運べない。8トントラックを運転手付きで借りて運ぶことにしたが、この経費がさらに20万。だが、想定外はさらに起こる。トラック会社が電柱を下ろす場所の下見に来たが、プレーパークに横付けなどとてもできないことが判明。最寄りで、北沢警察署の横、梅が丘中学校の正門前の道路に下ろすのが精いっぱいだとわかった。あの石段を上がり、梅林の横を通り、公園の突き当りのプレーパークまで運ぶ。その距離およそ350メートルを乾いているとはいえ100キロほどある電柱を!
腹をくくるしかなく、とにかく大勢の人に呼び掛けた。運搬当日、ふたを開けるとなんと87人もの人が集まった!!大人4~8人一組で一本を運ぶ。子どももたくさん手伝った(いや、ぶら下がったりするやつもいた)。始める前には絶対その日には終わらないと思っていた運び込みは、4時ころには終わっていた。ただ丸太を運ぶ、それだけなのにすごい熱気だった!
【羽根木プレーパーク プレーリーダーハウス 始まりについてのよもやま話②】に続く。
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