朴烈と北一輝の接点は? <クラファン、明日終了>
vol. 51 2024-12-16 0
朴烈と金子文子のいわゆる「怪写真事件」の黒幕が北一輝だったことは知られている。怪文書を書いたのも北一輝本人で、これによって時の内閣に揺さぶりをかけた。この北一輝と朴烈が、実はそれ以前に知り合っていた。
かつて高橋和巳が作家としてスタートした頃、北一輝について評論を発表している。その中で次のように書いている。
「ときに朝鮮人アナーキスト朴烈は天皇暗殺容疑によって逮捕された。服役中の朴烈が妻の文子と会っている写真を北は手に入れ、それをネタに北が書いた「怪文書」は法相の責任問題から内閣不信任案にまで発展した。北はその朴烈を大杉を通じて知っており、震災当時、一時はかくまおうとしたこともある。摂政暗殺問題は北の関知するところではないが、いわゆる朴烈怪文書事件は、北の陰謀であり、議会を混乱させ、政党と官僚の不信の念をかきたてる目的は達している。だが、それは朴烈の犠牲のうえになされたものだった。」(「順逆不二の論理」『20世紀を動かした人々・反逆者の肖像』1963年)
◉『孤立無援の思想』河出書房1966年。「順逆不二の論理」を所収。
1963年の時点なので、朴烈と金子文子については不正確な記述になっているが、北一輝と朴烈が知り合っていたことは間違いないようだ。北一輝について4巻の評伝を書いた松本健一は『評伝 北一輝 Ⅳ 二・二六事件へ』(中公文庫)で、以下のように記している。
「関東大震災のさい、自警団は朝鮮人狩りを行った。慶尚北道生まれの朴烈(ぼくれつ。パクヨル)(本名、朴準植)は大正八年、十七歳のとき京城高等普通学校を中退して、日本に来た。朝鮮独立運動から無政府主義運動に接近し、大正十一年には不逞鮮人を逆手にとった『フテイ鮮人』を発行していた。このころ、金子文子と同棲している。
朴烈はこの朝鮮人狩りから逃れるべく、出入りしていた千駄ヶ谷の猶存社に飛び込み、「北さん匿ってください」といった。しかし、北のところも憲兵隊に監視されていたから、「ここは危ない、早く逃げろ」と、二十円の金を与えた。そこで、朴烈は北のもとを飛び出たが、九月三日、浮浪罪の名で捕われた。」
高橋和巳も、北一輝が朴烈を「一時はかくまおうとした」と書いているが、朴烈が北のところに逃げ込んで助けを求めたというのは、何に依拠しているのだろう。あるいは一部用語が似ているので、同じデータを元にしている可能性もある。
一方、金子文子は同志への手紙の中で、大震災当日について以下のように書いている。
「今日は九月一日ーー震災のあったあの日はあの家のあの草原に、積み上げた畳の上で、てんでに訳の解らぬことを言ひ合ひ乍ら、なけなしの米を食べてゐた。貴方と××兄と××さん、それにPと妾だったね……隣の中学生が、ぼんやり立って聞いてゐた。
土手下で、身重な女が、大正琴を弾いてゐた。広い草原の彼方には、真紅な稲が燃えていた。月が、夕焼けの太陽のやうに変って……あゝ物凄い黄昏だったね……でも何んだか馬鹿に、遠い遠い昔の出来事か、夢の中の出来事の様な気がする……」(原題「九月一日の思い出に」。文中「P」が朴烈と思われる)
朴烈は、何人もの同志が寝泊まりしていた不逞社から一人離れ、北一輝に助けを求めたのだろうか。にわかに信じ難い気もするが、大震災の後の不逞社の動きを詳述している本があった。高橋和巳の「順逆不二の論理」の10年後に書かれた金一勉の『朴烈』。
「大地震にもかかわらず、朴烈・金子文子の住家は倒れなかったし、火災にもならなかった。地震の起きた九月一日の夕方、四日前に引越して行った栗原一男が訪ねてきて、その夜は家の前の原っぱに寝た。翌二日の朝、崔圭悰もやってきた。みんな朝食をとったあと、朴烈と文子は二階で壁を貼ったし、同居者の金徹は階下で掃除をやった。これを見ていた崔圭悰が大声をあげたりした。彼は酒に酔っていた。
「革命はこんなときでなければ起こらないのだ。こんな家を、こんなときに壁を貼ったり掃除をしたりするものがあるか?」
これを聞いた金子文子が下へおりてきて、崔に「そんなところで酔払って大きな声をして貰っては困る」とたしなめた。(中略)
翌九月二日、朴烈は、あちこちを歩きまわっている。まず同志の安否を気づかったとみえて、滝野川の高麗舎を訪ねた。ここには不逞社仲間が三世帯、ほかに同胞学生が住んでいた。かれは右翼の北一輝の家を訪ねて、金二〇円の寄附をもらったという。
それから朴烈は弁護士布施辰治を訪ねている。おそらく復興資金のカンパを貰いに行ったと思われる。前記の北一輝を訪ねてもらった金も復興資金であろう。当の布施弁護士はこう記している。
「(前略)軍閥テロの煽動で、孤立無援の鮮人が品川でも虐殺された、世田谷でも虐殺された、四谷でも虐殺されたという噂で、だれ一人来たものはなかった。だが、朴烈君ただ一人、青年運動の打合せに筆者の四谷荒木町の事務所に来た。朴君の革命家らしい几帳面さが偲ばれて嬉しい。」(『運命の勝利者朴烈』)。
◉『朴烈』合同出版1973年。
朴烈が北一輝を訪ね、20円受け取ったことは間違いないようだ。しかし、その趣旨が異なる。この日の朴烈の動きを見ると、朴烈が北一輝のところに逃げ込んで「匿ってください」と頼み込んだというのは不自然すぎる気がするが、さて。