金子文子の口調は? <クラファン終了まで7時間>
vol. 52 2024-12-17 0
金子文子は、どんな口調で喋った人なのだろう。獄中から綴った手紙に、その片鱗が窺えるような気がする。例えば、同志栗原一男への手紙で、当時大ベストセラーになった賀川豊彦『死線を越えて』を読んだ感想。
「『死戦ーー』を読むと貧民窟といふ人間の屑の醜さの中に、私(ひそか)に自分の優越を娯しんでゐるやふに思へる。何しろ呆れたユートピアンだ。
地球をばしかと抱き締め我泣かん、
高きにいます天帝の前。
とでも云ひそうなアンバイ式だ。
フーサンは云ってやる。
ころころ蹴りつ蹴られつ地球をば、
揚子の水に沈めたく思ふ。(註 手水・ちょうず?)
水煙揚げて地球の沈みなば、
我ほほえまんしぶきの陰に。
哲人だア事の、何だア事の、彼んだア事のって、ひちむづかしい身分不相応の資格をつけられるものだで、兄の求むるものを含蓄してゐない。此の私の『傑作』はびっくりして、後しさりして、咽に引っかかって出て来ない。」
文子は同志たちに自分のことを「フーサン」と称したようだ。同じ栗原一男宛の別の手紙でも、次のように書いている。
「「自我人社」ーこれも手前味噌か知れんが、でも兄の云われる通り好いサークルだ、それに「自我人」なる名の耳触りがいい。無論フーサンも仲間に入れて呉れてるでしょうね、入って何するのか、だろう、そうさ、そう訊かれたら答えに窮する次第だが、済まんが、隙を見て、私の思想とでもいうようなものを、思い切りコッピドク「親の敵」で身が入らねば「自分の敵」にでもめぐり逢った積りで批評して、コキ下ろしてくれないか? この返事待ってる、なるべく急いでね。例の相談に誠意があるならば遠慮する事なく、なるべく気に入らん方面を徹底的に批評して欲しい。」
自我人社は栗原一男が仲間たちと作ったグループで、文子の死の翌年、歌集『獄窓に想ふ 金子ふみ』を出版し、即日発禁となった。手紙の中で、自分の思想を「コッピドク」批評してほしいと書いているのは、発表するつもりの自分の文章をチェックするためのようだ。その後「なるべく鮮やかな実証哲学に関する物を一、ニ冊読んでみたいのだが、私に解るような物はないかしら?」と書いているので、思想的・哲学的な内容だったのだろう。
朝鮮の小学校の恩師、服部富枝(男性)には、次のような熱の入った手紙を書いている。
「私は昨年の四月から朝鮮人のニヒリステックなアナルキスト(無政府主義者)と同棲して居ります。何時ぞやお送りした『現社会』は私共二人が主になってやっています。」
「私は相変わらずチビです。九銭の下駄を一足でも永くもたすべく、一切の運動を禁じられた私が、大きくなりコジレタ様になったのは無理ではないでしょう。私は相変わらず貧乏しております。けれども、岩下(朝鮮の養家)の連中のように金の番人をしているよりは余程人間らしい生活です。十二銭の絵の具が買ってもらえなくて、先生のを拝借したこともありましたっけ」
「先生が転勤されてから、盛夏の一日、自殺すべくヨンボの踏切に行ったら、まだシグナルが下っていなかったので、一目散に夢中で走って白川(錦江)の旧市場の桐の下で、ユモジを解いて付近の石を拾い集めて、それに包み、胴体に縛りつけた時のあの突きつめた気持ちは、昨年その縮のユモジは破れてもう影も形も無くなって、悲しいその思い出ばかりがハッキリと残っております」
「私は世の中の『愛』というものを極端から否定しております。『親が子を育つるのが愛なら、人間が豚を飼うのも愛なので、要するに養豚業と養児業との差じゃあないか』」
「私はほんとに正義というもの、善というものが疑わしい。正義とは? 善とは? 一体何を標準としてデッチ上げられた言葉なのだ。
チェッ。世の中にはいわゆる正義や善なんかあるものか。私自身の考えること総てが善であり美であるのだ。」
親しい人たちには、勢い込んで喋りかけるように書く金子文子だが、相手が判事や裁判官となると一変する。文子に自伝を書くよう勧めた予審判事の立松懐清には、次のような手紙を出している。
「今、朝の六時過ぎ。朝飯前の仕事に、二、三日前差入れられた、あるロシア作家の論文集を開けて見たら、ふと斯う云ふ文句が目についたのをキッカケに、あなたに説教する。
『生きる事を欲する人間に、生きることを欲しないやうに説教する事は滑稽である(中略)』。
で私は、あなたに云ひますー
『生きることを欲しない人間に、生きる事を欲するやう説教する事は滑稽である(後略)』
「判事さん! あなたの不徹底で困る。一年半もつき合ひながら、どうしてそんなに私が解らないのか知ら? うんざりして了ふ。此の中の私の言葉や気持をよーく考へて見た上でいらっしゃい」
40代の切れ者判事に向かって、22歳の若い娘が「説教する」とか「よーく考へて見た上でいらっしゃい」などと書き付ける。並の度胸ではない。これが大審院の裁判長に対すると、さらにヒートアップする。裁判長牧野菊之助に、体調が悪いので裁判に出席しない旨、通告する上申書。
「私の方ではちゃんと云ったのだが、オカミの方で聴かねえで、勝手にきめちゃったのだ。従って私の知った事ぢゃない。十六七両日は生憎と身体の具合がいけなくて気分が悪いので、私は行かない。梃子を持って来ても動かねい。其のつもりで。公平を装ふ裁判官諸君! 金子フミに係る刑法第七十三条の罪並びに爆発物取締罰則違反被告事件は被告人無しで何とでも御損が行かんやうに裁判し給へ。
千九百二十六年二月十五日朝。 柏布団にくるまって 金子 フミ」
予審訊問を重ねた立松は文子の気性を理解していただろうが、現在の最高裁である大審院の裁判長、牧野は仰天したことだろう。苦々しく思ったに違いない。
威勢のいい金子文子の手紙だが、落ち込んだり悲観したりすることも時にはある。宛先不明だが「九月一日の思出に」と題された同志宛の手紙では、こんなふうに書く。
「 監視づき、タタキ廊下で、××の(註 労連の)
同志にふと会う獄の夕ぐれ
まことにたまさかな、偶然の邂逅であるのに、嬉しくって嬉しくって、夕飯の味を忘れて食べ終った、それほど…
だけど、夕方、お役所から帰ってからと云ふものは、なぜか知らぬ、ばかに娑婆が恋しい。自嘲してゴロリと横になって見たものの、淡い五燭の電燈の光を、遮切って、澄んだ月影が、高窓の鉄格子を、くっきりと畳の上に落としてゐるのを、それとなく見つめてゐると、かうして、こんな処に遊び暮らしてゐるー(妾のすきなせいではないのだけれどー)妾が世間の貴方がたに較べて、惨めな敗北者のやうに思へてならない。何だか世間の貴方がたがねたましい気がする、笑ってくださいませ。斯うした気持のする時も、たまにはあるものですよ…さよなら」 *妾=わたし
『何が私をこうさせたか』の序文「忘れ得ぬ面影」で栗原一男は次のように書いた。
「生前は、すこぶる感情家で、よく話し、よく笑ったが、話がたまたま朝鮮時代のことに及んだ時など、ボロボロと涙を流しながら、大声を上げて泣き叫ぶ」。
そんな感情家の金子文子が、手紙の筆致を通して伝わってくる。