「朝鮮人蔘商 朴 文子」とは? <クラファン終了まで、残り4日>
vol. 49 2024-12-14 0
「飲メ此奇功アル朝鮮人蔘ヲ …資本家も勞動者も政治家も…」という派手な広告が載っているのは、朴烈と金子文子が発行した黒濤會機関誌『黒濤』第2号(大正11年・1921年7月10日)。
発売元は「朝鮮人蔘商」の「朴文子」。
その後、二人で発刊した『太い鮮人』2号の後、改題した『現社會』にはスッキリ簡略化した次の広告が載っている。
朝鮮人蔘商としての「朴文子」は、どんな商売をしたのだろう。作家の平林たい子が、金子文子の人参売りに同行した回想を書いていることを、アナキズム研究者の亀田博さんの文章で知った。(『彷書月刊』2006年2月号「金子文子の朝鮮ームンギョン、山梨をつなぐその思想」)
以下引用する。
「私をはじめてそういうところ(注:「リャク」の現場)へ連れて行ってくれたのは、死んだ、朴烈事件の金子文子であった。…私達は、銀座の××時計展へずかずかと入って行った。<人参を買って下さい>と文子氏は唾を飛ばす様に言った。…<何? いらないって? 私を誰と思っているんだい?>文子氏はそんな言葉で言って『不逞鮮人』という雑誌を包みの中から出しかけた。…<朴文子ですよ>と文子は落ち付いたものだ。…(「金が欲しさに」初出28年『婦人公論』12月、『平林たい子著作集』所収)
亀田さんによれば「リャク」とは「会社、商店回りをして運動への協賛金を強要すること」。ほとんどユスリ、タカリに近い押し売りだが、シンパの作家や有名人にカンパを強請するのも「リャク」だった。語源は略奪だろうか。映画『百合子、ダスヴィダーニヤ』の資料に当たった時も、宮本百合子と湯浅芳子の家に左翼青年が押しかけてきて、ピシャリと断るエピソードがあった。
この「リャク」にかけては金子文子の方が積極的で、朴烈はそうでもなかったと見る人もいるが、実際どうだったのだろう。朝鮮人参の広告に見られる凄みの効いたユーモアは『太い鮮人』というネーミングにも共通している。
ネーミングの由来は、金子文子が尋問調書で以下のように語っている。
「大正11年11月頃、私と朴とは私ら両人の真の思想運動を官憲から看破されぬよう官憲を欺瞞するため、表面運動として日本文の雑誌「太い鮮人」を発行致しました。最初、私と朴とはその雑誌に「不逞鮮人」という題を選んだのでありますが、警視庁においてその題を許可せず、係官が太い奴らだと申したことに思いつき、「ふていせんじん」と読ませるために太い鮮人という題名にして二号までその雑誌を発行しましたが、世人がその題を嫌って広告を出してくれませぬ。私らは爆弾を入手する等の資金を調達する必要上余儀なくその題を「現社会」と改題してさらに二号までを発行しました」(1924年1月24日 第5回被告人尋問調書)
警視庁の係官が「不逞鮮人」というストレートなタイトルに不快を示し、「太い奴らだ」と怒ったのを逆手に取り、『太い鮮人』という新聞を発行する。ご丁寧なことに、紙面の上の欄外には「フテイ鮮人」と大書し、記事中では見出しに「太い(ふてい)」とルビが振ってある。係官は「ふてい奴らだ」と発声したのだろうが、おちょくっているとしか思えない。
尋問調書の文子の言葉は、書記が型通りに綴っているので堅苦しいが、せっかく係官のダメ出しを逆手に取って付けた「太い鮮人」なのに、スポンサーがこの題を嫌って広告を出してくれなかったという顛末が可笑しい。
*図版は黒色戦線社刊『金子文子 朴烈裁判記録』1991年より。