「女囚刑務所」の生活 <クラファン終了まで、残り7日>
vol. 47 2024-12-11 0
「国内最大の女子受刑者収容施設」(法務省)として知られる栃木刑務所だが、金子文子が在所した大正時代末の様子はどうだったのだろう。それを知る貴重な資料が、当の栃木刑務所から出されていた。
『移転20周年記念誌 平成12年春』(栃木刑務所刊)。この中に「栃木刑務所今昔物語」として、昭和8年(1933年)に作成された「婦人刑務生活繪畫帖」が収録されている。当時の所長が女子受刑者に描かせたものだとか。
女子刑務所なので、女性の刑務官が多いが、金子文子がいた当時、正式には「女看守」はいなかった。もちろん女性受刑者を担当する女性刑務官はいたが、「女監取締」と呼ばれ、男の看守と違って正式の公務員ではなく「傭人」、つまり、雇い人、使用人として扱われた。「官としての保護も保障も伴わなかった」という(「矯正史落穂ひろい 女監取締」佐々木繁典『月刊刑政』)
それが昭和4年(1929年)12月の「監獄管制附則の改正」によって、女監取締の名が消え、看守、看守長に登用される道が開かれた。なので、金子文子がいた頃の担当は「女看守」ではなく「女監取締」となる。
囚人服に2色あるが、柿色が入所して間もなく、まだ反省の足りない者、浅葱色が刑務所生活に慣れて「成績優良なる者」。
これは教誨堂と呼ばれる講堂のようなところで集団で行われているが、個人面談はあったと思われる。この教誨においても、金子文子がいた大正末には女性の僧侶は存在しなかった。刑務所での教誨にもっとも力を入れたのは浄土真宗だったが、初めて「女性僧侶」が誕生したのは昭和6年(1931年)。しかし、栃木支所ではそれ以前にも女性の教誨師の名前が残っているので、地元のお寺の坊守などが担当したのだろうか。
金子文子が宇都宮刑務所栃木支所で死んだのが1926年(大正15年)。この「婦人刑務生活繪畫帖」が制作されたのが1933年(昭和8年)なので、所内の様子にそれほど大きな変化はないと思われる。
なお、讀賣新聞(1931年・昭和6年)に『何が私をこうさせたか』の熱烈な書評を書いた林芙美子が、その後、栃木刑務所に行き、「新生の門ー栃木の女囚刑務所を訪ねて」というルポルタージュを発表している。1937年(昭和12年)の選集に収録されているが、いつ頃訪れたのだろう。しかし、ここでは金子文子について一切触れていない。状況に変化があったのだろうか。
◉青空文庫 林芙美子「新生の門ー栃木の女囚刑務所を訪ねて」https://www.aozora.gr.jp/cards/000291/files/47818_...