「マニラ麻」の謎 <クラファン終了まで残り8日>
vol. 46 2024-12-10 0
金子文子の死については、謎が多い。もっともポピュラーに読まれている瀬戸内寂聴『余白の春』(岩波現代文庫)では、以下のように記されている。
「決して感傷的に絶望的に、あるいは、錯乱して発作的な死をとげたのではないことは、それまでずっと拒否しつづけていた作業を、自分から申し出て、縊死するための縄をつくる材料として、マニラ麻の配給を受けていることでも知れよう。文子は七月二十二日にもらったマニラ麻で縄を編みはじめ、二十三日の真夏の朝日の、明るく強く射しこむ独房の窓ぎわで、縊死体となって下ったのだ。」
これを読んで、刑務所が無期刑の受刑者に麻縄を編むような作業をやらせるのかと驚いた。首吊りを誘っているようなものではないか。この記述の元になったと思われるのが、東京朝日新聞、大正15年(1926年)7月31日の次の記事。
記事の本文を書き取ってみる。
「(栃木電話)金子文子の獄死はアナ系一派の動揺を来す恐れありとて絶対秘密に付されてゐるが文子は去る五月以来宇都宮刑務所栃木支所内奥深く特設された重刑監に収容されてゐたもので極度に厭世に陥りことに最近の振舞に不審のかどがあるので前田支所長は文子専任の女看守を付して警戒中のところニ十二日午前六時半看守が見回つた時は確かに朝の微光のさす獄窓の真下に座して静かにマニラ麻つなぎに勤しんでゐたはずの文子が同六時四十分僅か十分間の間に窓の鉄棒に麻糸をかけて縊死して居るのを再度の見回りで発見し驚いて直に引下し人工呼吸を施したが間に合はず死後ニ十分を経て近所の斎藤醫師続いて粟口嘱託医が急を聞きつけ駆けつけた時はひとみも全く散大して手の下しやうがなかつた醫師の言によると身體は極めて壮健で何等異常の點を見なかつたが麻糸がしつかり急所に食ひいつて窒息死したものでその落着いた用意周到の自殺には等しく驚いて居る、尚マニラ麻つなぎの内職は今までそれを拒んで服しなかつたものをその日の前日にはかに自ら望んだのである」(嘱託医の名前は「粟田口」の間違い)
句読点のない一続きの文体に面食らうが、間違いなく「マニラ麻つなぎの内職」としている。「極度に厭世に陥りことに最近の振舞に不審のかどがある」のに、それをさせるのか?
日付が「二十二日」になっているが、金子文子が死んだ後、刑務所当局は23日、文子の母きくのに「フミコシンダシタイヒキトレ」という電報を打ったのみで、一切公表しなかった。きくのは、文子が大審院の判決の直前に朴烈と正式に結婚しているので、朝鮮の朴烈の実家に電報を打ち、遺体引き取りを依頼した。しかし、布施辰治弁護士に相談するため、29日になって上京する。ここから文子の死が明らかになり、新聞社が取材を開始。そのため当初、死亡日時もブレた。
以下、山田昭次『金子文子 自己・天皇制国家・朝鮮人』(影書房)をもとに、頑なに情報公開しない刑務所当局と、各社まちまちの報道を紹介する。
『東京朝日』〜7月30日「二十三日看守の隙をうかがい何故か覚悟の自殺を遂げていたのを程経て看守が発見」(上の記事に先立つ速報)
『国民』〜7月30日「廿ニ日午後十二時から翌廿三日午前四時半の間に刑務所内にて自殺しているのを巡視に回って来た看守が発見」。同日夕刊「廿三日午前看守の隙を見て覚悟の自殺を遂げた。同支所の一看守の語る処によれば、彼女は腰に巻いていたしごきで首をしめたもの」
『読売』〜30日「紅の紐を窓の鉄棒にかけて縊死した」。31日「廿三日午前六時四十分頃突如細紐を以て我れと我が首を縊り」
『大阪毎日』〜30日「22日午前六時半から四十分頃までの間に独房内で自殺した」「腰にしめていた紅の紐を窓の鉄棒にかけ縊死をとげたものらしい」
江木司法大臣答弁(1927年1月19日)〜「七月二十三日の午前九時頃僅かの監視の時間を逃れまして、自分が締めて居りました所の紐を以て、居房内に於きまして縊死を遂げたのであります」
結局、「マニラ麻つなぎの内職」について触れているのは、東京朝日新聞のみ。妙にディテールに凝っているのは、記者の想像が混じっている気もするが、囚人にマニラ麻をなわせる作業はあったのだろう。
しかし、刑務所当局のシラを切る対応は尋常ではない。先の記事を書いた記者かどうか、『東京朝日』の記者が、30日の深夜に宇都宮刑務所の吉川所長に取材すると、当惑の色を浮かべて、
「弱りましたな、とかくそのような事を伝えられると事件が事件ですから世間の誤解を招きますのでぜひ秘密にしてもらいたい。自殺だって? ハアそんなうわさがありますか、うわさなら仕方がありませぬが、然し新聞がその事を掲げる事は却て社会善導の目的に反しますよ」
山田昭次氏は「発表すればはなはだ国家権力にとって都合が悪いことがあって徹底的な秘密主義をとったのであろう」と書いている。山田氏は1993年と1995年に、栃木刑務所に対し金子文子関係資料の閲覧を要請した。最初は「当該人の名誉・人権を侵害する虞れがあり、閲覧は差し控えさせていただきます」。ニ度目には「文書は50年で廃棄する規則に従って金子文子資料は廃棄した」。2年前にはあったのではないかと問うと「資料はあったとしても、前回と同じ理由で見せられない」。その後正式に文書で「廃棄した」という回答があった。
<追加資料>
上記「東京朝日新聞」と同じ、7月31日の「東京日日新聞」です。こちらは「紅の紐」説を採用しています。聞慶の「朴烈義士記念館」で撮影したものですが、同館の金子文子関係の展示は非常に充実しています。