金子文子の「本当の顔」? <カウントダウン 終了まで9日>
vol. 45 2024-12-09 0
金子文子も朴烈も残された写真は極端に少なく、しかもそれぞれが別人のように見える。
もっとも有名な写真は、いわゆる「怪写真」で、これは予審判事、立松懐清が撮影した。朴烈が朝鮮の母に形見として送るからと、カメラ愛好家でもあった立松に依頼。これがアナキスト仲間の手によって流出し、金子文子の死の直後、政府を糾弾する怪文書と共にばら撒かれた(この怪文書には北一輝が関わっている)。
この写真では、金子文子の顔が手に持った冊子の影に半分隠れている。朴烈の表情も、当時新聞で報じられていた写真とは相当違う。この事件の報道が解禁になった1923年10月20日の朝日新聞は、以下のような写真を掲載した。
朴烈の写真は凶悪な印象で、いかにも「不逞鮮人の秘密結社」の首魁といった印象を与える。
一方、文子の写真は現在も使われている写真だ。
しかし、これが韓国では、まったく別のタイプの写真が流通している。
新聞か雑誌か、何か印刷物の写真と思われるが、朴烈は先進国で学んだ気鋭の革命家といった印象を与える。現在、朴烈の生地、聞慶にある朴烈義士記念館では、以下のようにアレンジしてパネルが製作されていた。
一方、文子の写真は真面目で働き者の女性に見えるが、その元になっているのが次の写真。
これは顔の部分が、岩波文庫『余白の春 』(瀬戸内寂聴)のカバーにも使われている。手に大きなザルを持っているが、これは果たしてどういう状況で撮られたのだろう。文子は朝鮮人参の行商をしていたこともあるが、当時を回想した母親の証言によれば、
「文子が全くの男であって、いわゆる女らしさを全然失っていることに驚いたというより外はありません。その頃断髪でいたし、朝鮮服を着て、男用の鞄を下げて、ほとんど一日中何所かを歩き回っては、朝鮮人参の行商をやり、傍ら雑誌を出していたようでした」。
社会主義や虚無主義の活動に入る前の写真のように見える。次の写真は、市ヶ谷刑務所で撮られたと聞いたことがあるので、「実行家」になってからの写真であることは間違いない。
しかし、どうして市ヶ谷刑務所で撮られたのか。入所者は入所時に写真撮影されたが、普通、所内で囚人服を着せて撮るものではないだろうか。こんな日常的なポーズで撮る? 震災の年のメーデーに金子文子は参加し、警察に検束されているが、一晩留置されたのは愛宕署だった。
日本の新聞写真では、不逞な野獣派の印象の強い朴烈だが、文子と二人で写真館で撮った?次のような写真も残っている。
大審院で裁判が行われていた1926年3月、『主婦之友』に掲載されたが、二人ともどこか初々しい。出会って間もなくだろうか。朴烈はルパシカを着ている。当時のアナキスト青年はもっぱらルパシカを着ていたと、同志栗原一男が語っていた。しかし、ここでも文子の顔は誰か別の人のように見える。
金子文子の顔写真の印象が一定しないため、単行本のカバー写真が同姓同名の社会運動家と取り違えられたこともあった。韓国の西大門刑務所歴史館には、その間違った写真が残されている。この刑務所は大日本帝国の朝鮮総督府によって、独立運動家が投獄され、拷問を受けた。金子文子の右側のパネルは弁護士の布施辰治で、共に植民地朝鮮のために献身した日本人として顕彰されている。