山梨の金子文子の歌碑 ②
vol. 37 2024-11-26 0
山梨市牧丘町杣口にある金子文子の歌碑の裏面の一部が汚れ、文字が読みにくい。なんと書いてあるのか。同志栗原一男(戦後、一夫と改名)が文を書いて、書家の筆によるもの。
黒色戦線社刊の『獄窓に想ふ 金子文子全歌集』(1990年)に「金子文子碑が完成 牧丘の生家 同志が除幕祝う」という山梨日日新聞1976年3月21日付の記事と、碑文が紹介されていた。
裏の碑文については、句読点を入れ、読みやすくしてあるので、実際の写真をもとに原文を再現してみる。
「金子ふみ子 千九百四年十一月二十五日当地に生まる
幼にして縁戚に乞われ朝鮮に渡り世の辛酸を味わう 七年余にして帰国 上京 向学の志に燃えて正則英語学校 研数学館等を経て勉学につとめる一方 自由 社会的正義 反権力主義の思想に傾倒し同志と結ぶ 千九百二十三年九月関東大震災を契機に同志 朴烈らと共に逮捕さる 千九百二十六年三月二十五日 刑法第七十三条に依り死刑を宣告さる 越して四月五日減刑 無期懲役となり下獄し 栃木刑務所在所中 七月二十三日自死す 享年二十三才 人間性の尊重に徹し 自由を尊重し 権力主義を否定し 新時代の先駆となる
千九百七十六年三月二十日 栗原一夫 撰
赤池忠則 書」
山梨日日新聞の記事でも「牧丘の生家」となっているが、実際には横浜で生まれた。朝鮮の叔母・祖母の家に引き取られる際に、母の両親の末娘=母の妹として入籍されているので、杣口で生まれたことになっているのだろうか。
記事の書き出しは「大正の末、激しい恋と権力への抵抗に生きた金子文子の碑が、東山梨郡牧丘町大室の生家に建てられ、二十日除幕式が行われた。」
参加したのは「余白の春」の作者瀬戸内晴美、かつての同志の栗原一夫と韓晛相、国会議員の小林信一と神沢浄、山梨の文化人団体「山人会」副会長の望月百合子など約150名。
碑は金子文子建碑実行委員会(塚田芳三委員長)がカンパを呼びかけ150万円集まった。塚田委員長については、どういう人か分からなかったが、国会議員はどちらも日本社会党、望月百合子は戦前は新聞記者でアナーキストだった。こうした人たちが、山梨での金子文子の再評価に尽力したのだろう。
栗原一夫と共に名前の上がっている同志、韓晛相は不逞社の一員として検挙されたが、最終的に証拠不十分で予審免除となった。戦後、在日朝鮮人の置かれた状況について次のように書いている。
「日本警察内鮮課の監視下で生きることは生やさしいことではなかった。(中略)人間として生きんがために文化を論じたり、人権擁護を叫んだり、民族独立の如き根本問題に、一寸でも触れることは、すぐ残酷な報復の仕打ちと、暗い陰影が執拗に付きまとった。(中略)ビラ一枚、ポスター一枚を貼るだけでも全神経を動かさなければならなかった程、<身の>危険が伴うのであった。祖国を亡くし、天涯孤児同様に流民の身の上となった在日同胞に、なんの人権保障があったろうか。無双の悪法、治安維持法その他の取締法は、全く恐るべき掟であった。一度、不幸にしてその網に引っ掛かったら最後であった。内鮮係の監視を背中に感じて、四六時中生活はスパイされ、社会活動は制扼と妨害される。疫病神に取り憑かれたものと同様で、何時どんな痛い目に会わないとも限らなかった。」(韓晛相「在日韓民族運動史」『民主新聞』1960年10月19日号)