「女性監督は歩き続ける」〜第37回東京国際映画祭
vol. 31 2024-11-06 0
かつて高野悦子さん(岩波ホール支配人)をリーダーとする「東京国際女性映画祭」が、東京国際映画祭の一部門として開催されていた。1985年にスタートし、2012年に終了。高野さんは2013年に亡くなった。
カリスマ性のあるリーダー、高野悦子さんの業績を検証し、東京国際女性映画祭の果たした役割を再検討するシンポジウムが、今年の東京国際映画祭の「ウィメンズ・エンパワメント部門」として開かれた。これに浜野佐知監督も招請され、高野さんや国際女性映画祭について語った。
冒頭、高野悦子さんを「お母さん」と呼ぶインドネシアのクリスティン・ハキムさん(俳優・プロデューサー)が熱い思い出を語るバックで、第1回からの東京国際女性映画祭の集合写真が流された。浜野監督は第9回の公式記者会見で「日本で最も多くの作品を監督したのは田中絹代監督の6本」という発表を聞き、自分の撮ってきたピンク映画300本(製作含む)が日本映画の歴史でカウントされない現実を知る。そこで、この映画祭で上映される作品を制作・監督することを決意した。
ハキムさんのバックに写っているのが、第10回カネボウ国際女性映画週間(当時)の集合写真。浜野監督も最前列右端に写っている。すでに『第七官界彷徨ー尾崎翠を探して』の制作を発表し、全国的な募金活動も展開されていた。今回のシンポジウムで浜野監督も語ったように、高野悦子さんは羽田澄子監督などと共に、岩波ホールの試写室で浜野監督のピンク映画3本を上映。そこに「女性の視点」が生きていることを評価し、支援に乗り出してくれた。女性映画の大御所にピンク映画3本を立て続けに観てもらう、この試写室の経験は、浜野監督にとって冷や汗ものだったに違いないが、高野さんは分け隔てするところが全くなかった。
『第七官界彷徨ー尾崎翠を探して』は翌年の第11回カネボウ国際女性週間で初公開され、シネセゾン渋谷が満員となって、お客さんの入場をお断りする騒ぎとなった。高野さんはすぐに紀伊國屋ホールでの再上映を決めてくれたが、入場できないお客さんたちに高野さんと浜野監督がお詫びした後、監督を引き寄せ、強く抱きしめてくれたとか。長身の高野さんだったが、その感触が今でも残っていると語る浜野監督。
『第七官界彷徨ー尾崎翠を探して』は翌春、岩波ホールでロードショー公開された。
今回のシンポジウムでは、主に東京国際女性映画祭に参加している女性監督たちにインタビューした『映画を作る女性たち』(熊谷博子監督。2004年)が上映された。ちょうど20年前の作品で、亡くなった監督も少なくない。
20年前の浜野監督で、東映ラボテックの地下の金子編集室で撮影された(フィルム編集者の金子尚樹さんも亡くなった)。バックになっているポスターは、自主制作2作目の『百合祭』(2001年)。この作品が世界の多くの映画祭から招待され、忙しく飛び回っていた頃と思われる。
『映画を作る女性たち』上映の後、4部構成の女性監督クロストークが行われた。第1部は「道を拓いた監督たち」。
写真右から、山﨑博子監督、松井久子監督、浜野佐知監督、熊谷博子監督。左端は司会の森宗厚子さん(フィルム・アーキビスト/広島市映像文化ライブラリー)。いずれも高野悦子さんや東京国際女性映画祭に馴染みの深い監督さんたちで、浜野監督は、先月新作をクランクアップしたばかりの現役であることを強調した。
第2部は「道を歩む監督たち」で、佐藤嗣麻子監督、西川美和監督、岨手由貴子監督、ふくだももこ監督、金子由里奈監督。司会は今回のシンポジウムの企画者である近藤香南子さん。第3部は「ウィメンズ・エンパワメント」として今回の東京国際映画祭で上映されたジェイラン・オズギュン・オズチェリキ監督(トルコ)、オリヴァー・チャン監督(香港)、甲斐さやか監督。司会はアンドリヤナ・ツヴェトコビッチさん(この部門のシニア・プログラマー)。
第4部は「女性映画監督の未来+Q&A」として、この日登壇した日本の女性監督全員でトーク。司会は児玉美月さん(映画文筆家)。児玉さんは北村匡平さんとの共著『彼女たちのまなざしー日本映画の女性作家』(フィルムアート社)で目の鱗が落ちる浜野佐知論を書いてくれた。
左端が児玉美月さん。年代の大きく異なる女性監督たちだが、横の連帯に関して浜野監督や山﨑監督から、かつてあった「女正月」が語られた。25年続いたこの会は、当初女性監督だけだったが、映画業界で働く各部門の女性たちが集まり、交流した。コロナ禍で中断したが、浜野監督はこうした会の可能性や、日本では「あいち国際女性映画祭」だけになってしまった「国際女性映画祭」の必要性を語った。
なお、この日配られた公式ブックレットでは、浜野監督の著書『女が映画を作るとき』(平凡社新書。2005年)に収録された高野悦子さんインタビューが再録された。「早く生まれ過ぎた世代」から、と題された章で、高野さんが公式発言とは異なった、生き生きとした言葉で自分の人生や仕事について語っている。「やりたいことだけ実現しなかった」「海軍兵学校に入りたかった」「男のモラルは女に通らない」「孤独で変人と思われてきた」「生きることは行動すること」「刺すなら心臓」などの小見出しが、高野悦子さんの孤高の面影を伝えてくれる。