遠い日の記憶
vol. 7 2024-07-15 0
萩ツインシネマは、映画を愛する人で運営されているのではない。
町に映画館が必要だ、とか、映画館経営は面白い(当時)、くらいなノリで、
映画館経営をやりたい高雄先生と、なんとなく周りで支援する人々ではじめられた。今もその流れをくんでいる。
結果。そのポリシーのなさで、のらりくらいとやれているような気がする。
萩国際映画芸術祭が9年で終わった。2004年、映画館といえば、シネマコンプレックス時代。民間有志の株式会社ムービーボラトピアも解散のタイミングとなった。
経営破綻を回避しようと、丁寧に解散した株式会社をNPO法人に移行するのだから、町を二分した争いとなった。
メジャー映画の二番館という、昭和のスタイルをそのままひきずったツインシネマに、
映画芸術祭の崇高たる理念に集まった方々は、そっぽを向いた。
少々長文であるが、柴田館長物語前編をお届けする。
20年前の2004年8月、設立ありきで、3カ月間ツインシネマは休館して、再びNPO法人として始動した。
会費をもとでにと、集めた会費数百万円が、年末にはなくなった。
私が、ボランティアにと、声をかけられたのは、お金が底をつきそうな、秋10月。
つい、そのとんでもない経営試算表をみて、言ってしまった。「おかしい」と。
毎月毎月、赤字を垂れ流して、馬鹿なのか、と思った。
それからが、大変。NPO法人、会社の社長さんや、議員さんが集まっている理事会で、(事実ではあったが)こんな経営をしているNPO法人の理事の責任がある。などといったから、
つまみ出された。つまみだされれば、よかった。
なのに、館長柴田は、めっちゃ怒られた結果、当時の関係者20人あまりの、一番末席で、ひたすらボランティアに専念することに、念書をとられた。
初代支配人だった山本さんから「柴田さん。改革はよいけど、革命はいかんよ」と投げかけられたとき、ものすごく悔しかった。
一番最初に命令されたのが、国際映画芸術祭に貸し出した賃料20万円をとってこい、ということ。もらえなかったけど。そして、理事さんたちにも、20万円づつ出資してくれ、って歩かされた。またも理事さんたちから怒られた。
ひたすら、悪い経営が続く。
みかねた、役員のひとりであった、山口県を代表するスーパーマーケットの執行役員のTさんがスパルタ指導を始める。完璧な会議運営のための会議の会議。インを増やすために、イベントを打ちまくった。柴田つかれきってた。そして、Tさんは、転勤により萩市から離れた。
続いて登場した、若き企業経営者のYくん。
Yさんは、ひたすら会議で柴田(当時、ただのボランティア事務員)をののしる、という経営戦略で、理事会を鼓舞していた。このときは、本当に苦しかったな。
が、Yくんが突然失踪した。
ここまでが、最初の5年くらいの出来事。
Yくん退場したおかげで、意見を言わずひたすらボランティアに専念すること、という念書の呪縛から解放された。
この5年の苦しさを思うと、よくここまで、来させていただいた、誰に感謝してよいか、わからないけど、神様に感謝である。
でも、これで終わらないツインシネマ物語。
あと、3回大きな争いがある。
ずっと、昭和の興行やなぁ。