「3.14に思う」(フェイスブックより)
vol. 52 2015-03-15 0
こんばんは!プロジェクトマネージャーの野村です。
さて、今日は監督がフェイスブックに「3.14に思う」と題する文章を掲載しましたので、そちらを転載します。3.11ではなく3.14の意味とともに監督と波伝谷、そして震災とこの映画についてご一読ください。
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【3.14に思う。】
2011年3月14日月曜日。映画『波伝谷に生きる人びと』のラストシーンに当たるこの日は、現地で被災した自分が波伝谷を出てきた日であり、個人的には3.11以上に特別な意味を持つ日でもある。
「またすぐ戻ってきますから。」震災直後の撮影の準備を整えるため、そう言い残して波伝谷を去って行った自分は、その言葉とは裏腹に、その後しばらく波伝谷に戻ることができなくなってしまった。これまでの4年間は、その自分自身の選択について、必死に問い続けてきた時間とも言えるかもしれない。
「監督と波伝谷の方々との信頼関係が素晴らしかった。」映画を観た観客の感想によくこんな一文がある。しかし当の本人にとっては、震災前、波伝谷に撮影に行くのが苦痛でしょうがなかった。撮影のために電話を入れるのも気が重い。車を運転していると、波伝谷に近づくにつれて途中で引き返したい気持ちにかられる。風景を撮影するために外を出歩くのも嫌。何より人に会うのが恐い。フィールドワーカーやドキュメンタリストによく見られるこうした精神状態(何か名前があるのだろうか)は、対象との間に節度ある緊張関係を保つ一方、本当の信頼関係など築けていないことの表れのような気もする。
要するに、震災前の自分は波伝谷の人たちに対して遠慮していた。自分は何がしたいのか、腹を割って相手と十分に向き合うことができなかった。映画なのだから、相手の人生の大事な部分に踏み込んでいかなければならないのに、自分が傷つくのが恐くていつもそこから逃げてばかりいた。伝えなければならないことがそこにあるのなら、否定されてでもそれを撮らなければならないのに、その覚悟も勇気も無かった。だから撮影はいつも一方的な片思い。波伝谷の人たちには何の影響も変化も無い。考えているのは自分のことだけ。「自分は本当に波伝谷の人たちのことを見ているのか。自分のことしか見ていないんじゃないか。」そう思うことも多々あった。
それでも何が自分の背中を押したのか、自分は波伝谷の人たちを撮り続けた。どうしたらこの人たちの生き方や魅力を伝えられるのか、少しでもその日常に近づきたくて、毎日毎日波伝谷の人たちの夢を見続けた。波伝谷に向かうときの憂鬱な気持ちとは一転して、帰り道、「やっぱり来てよかった」と泣きながら運転することも度々あった。ドキュメンタリーを撮る理由はいろいろあるけれど、本当のところは自分が人としてこの人たちに近づきたいだけなんじゃないか。そう思うことも多々あった。
「伝える人間(映画監督)」と「我妻くん(一個人)」の間でもがき続けた3年間。だからこそ、震災があって白石市の自宅に戻り、初めてその当時の状況を理解した時、それまで6年間(民俗調査時代を合わせ)交流を続けてきた波伝谷の人たちとどう関わればいいのか分からなくなってしまった。自分は一体何者としてそこに戻ればいいのか。表現者としての覚悟も無ければ人として向き合う勇気も無い。否定されることが恐い。何もかもが中途半端。躁から一転して完全な鬱状態。しばらくは何もする気力が起きなかった。
「今までお世話になった人たちが大変な時に、自分は一体何をしているんだろう。」震災を機にゼロから被災地でスタートを切れる人たちがうらやましくてしょうがなかった。そんな自分がお世話になった人たちの元へ戻るためには、とにかく一刻も早く映画を完成させるしかない。映画が完成しさえすれば、自分も新たなスタートを切ることができる。そう思って編集に打ち込んだ。しかし今にして思うと、それも何か理由をつけて目の前の現実から逃げていただけなのかもしれない。
そうこうしているうちに現地の状況はめまぐるしく変わり、今まで誰も知らなかった南三陸町は、一躍津波被災地のメッカとして全国に知れ渡る。支援者やボランティアなど多くの人が波伝谷に入る中、それまで6年間そこに生きる人びとのくらしを見続けてきた自分は、一番肝心なときに何も動くことができない。3月14日を境に、自分だけが世の中から取り残されたような感覚になった。「自分にしかできない」と信じて編集していた映画も一向に完成せず、その感覚はもはや焦りを通り越して、「もう震災前の映像なんて誰にも必要とされていないんじゃないか」という恐怖に変わって行った。
それから波伝谷で撮影を再開するまでの自分自身の葛藤は、いずれ文章としてちゃんとまとめたいのでここでは省略する。そして震災後に悩みながら撮影した300時間にのぼる映像も、今回の映画『波伝谷に生きる人びと』の中には一切使われていない。(それらは今後続編として形にするつもりです。)映画の中で描かれているのは、震災前にずっと自分がこだわり続けていた人びとの営みと何気ない日常だけである。これについて、観客からは「震災後も描いてほしかった」とか、「作り手自身の葛藤が観たかった」といった感想を言われることがたまにある。もちろん、そうした構成について自分自身も考えないわけではなかった。
しかし今の自分には、震災前の時間と震災後の時間を未だに同等に扱うことができないでいる。二つの時間はあの日(3.14)以来ずっと断絶したままになっている。それができるのは、おそらく震災後の波伝谷を撮り切ったときだろう。そしてそれができたとき、もしかしたら僕の波伝谷での表現は終わってしまうのかもしれない。(そんなことはないと思うけど。)それにもし震災後の映像が主体になるならば、そこから零れ落ちてしまうものもたくさん出てくるだろう。すなわち、震災前の時間はそれだけで確固としたものではなく、震災後を引き立てるためのものになってしまう。それはどうしても自分の中で違和感があった。
それよりも、まず自分がしなければならなかったのは、震災前がむしゃらに過ごしてきた波伝谷での時間を映画の中で取り戻すこと。そのことが今の自分にとって一番切実な問題であり、今回の映画で表現できる精一杯のことだった。つまり僕自身被災者の一人であり、震災から4年経った今でもそのことが上手く整理できていないのである。だからはたから見れば、「いつまで震災前にこだわっているの?」と思われるかもしれないけど、自分が前に進むためには、どうしてもこの映画を震災前の映像だけで形にする必要があった。自分がずっとこだわってきたことを、納得のいく形で仕上げる必要があった。それでも震災直後の3月14日、自分が波伝谷を出てくるまでを描いたのは、それ以前の時間を決して美化して終わらせることなく、現実に続いている、そしてこれから先もずっと続くであろう波伝谷の人たちとの関係を何とか映画に込めたかったからである。
去る2015年3月11日。その日はお世話になった波伝谷の人たちと大切な一日を過ごしてきた。あるご家庭で2時46分に黙祷を捧げ、また、あるご家庭でその日の夜は楽しく酒を飲み交わした。波伝谷の人たちとの関係も今では大分変わった。大分腹を割って話ができるようになった。震災を経てというのも大きいけれど、やはり映画を形にしたということが一番大きいと思う。形にすることでようやく深まる信頼関係もある。
波伝谷に行く度に、変わり行く風景を見て、「今の自分は逃げてないか?」「ちゃんと生きてるか?」そう自分に問いかける。飲み会の帰り、波伝谷の人の肩を支えながら歩いた小道も、誤って転落してしまった側溝も、そのまま酔い潰れて眠りに着いてしまったたくさんの家も、今はもう無い。亡くなってしまった人もいるけれど、それでもみんな生きている。今後も「映画監督」と「我妻くん」の間で揺れながら、それをあまりプレッシャーに感じず、今は目の前のことにしっかり取り組んで行きたい。
2015.3.15 我妻和樹
※震災後のことを公式な場で書くのはほぼ初めてなので、書いているうちに力が入って日をまたいでしまいました。
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