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ドキュメンタリー映画『波伝谷に生きる人びと』をクラウドファンディングで実現!
3.11までの3年間、南三陸の小さな漁村の日常を追ったドキュメンタリー映画『波伝谷(はでんや)に生きる人びと』。そこに描かれている地方の漁業者の生き方と地域のつながりを全国の観客に届けるため、みなさんの力をお貸し下さい!!
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震災前の南三陸を舞台にしたドキュメンタリー映画『波伝谷(はでんや)に生きる人びと』(PFFアワード2014 日本映画ペンクラブ賞)監督。 1985年宮城県生まれ。2004年4月に東北学院大学文学部史学科に入学。翌2005年3月より、同大学の民俗学研究室と東北歴史博物館の共同による、宮城県本吉郡南三陸町戸倉地区波伝谷での民俗調査に参加。2008年の報告書完成と同時に大学を卒業し、その後個人で波伝谷でのドキュメンタリー映画製作を開始する。 現在はピーストゥリー・プロダクツとして上映会を主宰。2014年の夏には『波伝谷に生きる人びと』宮城県沿岸部縦断上映会(11市町)も開催している。
3.11までの3年間、南三陸の小さな漁村の日常を追ったドキュメンタリー映画『波伝谷(はでんや)に生きる人びと』。そこに描かれている地方の漁業者の生き方と地域のつながりを全国の観客に届けるため、みなさんの力をお貸し下さい!!
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◎監督のごあいさつ
ピーストゥリー・プロダクツでは、東日本大震災前の南三陸を舞台にしたドキュメンタリー映画『波伝谷に生きる人びと』の全国劇場公開を目指し、只今準備を進めております。
本作は、大津波により壊滅した宮城県南三陸町の約80軒の漁村「波伝谷(はでんや)」に生きる人びとの、2008年3月から2011年3月11日にかけての日常を追いかけた作品です。そこには日々の海の仕事や地域の年中行事はもちろんのこと、南三陸の歴史的背景から当時の地域が抱えていた課題にいたるまで、かつて流れていた「時間」そのものが人びとの息づかいとともに丹念に描かれており、数ある震災映画の中でも極めて稀有な作品であると同時に、ある時代の地方の姿を捉えた作品としても非常に重要な価値を持っています。
監督である私・我妻和樹がこの作品の完成までに費やした時間は、学生時代の民俗調査期間の3年、卒業後の撮影期間の3年、震災後の編集期間の3年の約9年。そして2014年1月13日に南三陸町で行った完成披露上映会を皮切りに、数々の映画祭や自主上映会で取り上げられ、第36回ぴあフィルムフェスティバルの「PFFアワード2014」では「日本映画ペンクラブ賞」を受賞するなど、全国のたくさんの方の手ほどきを受けてここまでやってくることができました。
そこで今回の劇場公開では、この映画をより多くの観客に届けることによって、日本全国どの地域・組織にも共通するコミュニティの普遍的な姿に触れ、自分たちの足元を支えている世界や身近な人とのつながりについて見つめ直すきっかけを作ると同時に、震災によってその暮らしが土台から壊された現実を知ることで、失われたものの大きさと、自分たちが日々生きている何気ない日常の価値を捉え直すきっかけを作れればと考えております。
もちろん、すべての映画にとって、映画館で上映されることが一番ふさわしい形とは限りません。本作も、これまで映画祭や自主上映会で取り上げられるほかに、当会主催による宮城県沿岸部縦断上映会(計11会場)を開催するなど、地元宮城を拠点に草の根的な上映活動を続けてきました。しかし今回劇場公開を実現したいと強く思った理由の一つには、地域に根差し、自然の豊かさと厳しさに寄り添いながら生きてきた波伝谷の人たちの人間的な魅力があげられます。そしてその魅力に触れる機会は、より多くの人に開かれるべきものであると感じています。
しかしながら完全自主製作かつ無名の若手監督が一人でも多くの人に映画を観てもらうためには、「宣伝」とそのための「資金作り」という2つの大きな課題をクリアしなければなりません。とくに後者についてはかなりの難題で、監督一人の力ではどうすることもできません。そこで今回この課題に立ち向かうべく採択したのが、困難をプラスに変える可能性を秘めたクラウドファンディングという方法です。この方法を介することで、これまで出会うことのなかった全国の多くの方とつながり、劇場公開という一連のストーリーを盛り上げ、成功させられるのではないか。これが本プロジェクト立ち上げの動機です。
震災後、被災地を舞台にしたドキュメンタリー映画が数多く作られましたが、本作は、今「被災地」と呼ばれている場所にかつてどんな人の営みがあったのか、それを伝えることができる世界でも唯一無二の作品です。そこには震災という大きな出来事を含め、時代の波に翻弄されながらも懸命に生きる人びとの普遍的な生き様が描かれています。そしてその生き様は、震災を経験した今だからこそ、多くの日本人に伝えなくてはならないものと感じております。どうかこの映画の可能性と、劇場公開の主旨にご理解・ご賛同いただける方からのサポートを心よりお待ちしております!!どうぞよろしくお願い申し上げます!!
2015年1月27日(火)ピーストゥリー・プロダクツ 代表・監督 我妻和樹
◎劇場公開の時期と規模
2015年夏に東京の映画館・ポレポレ東中野での公開が予定されております。以降、全国15館を目標にします。
◎サポートをお願いしたい内容
公開が予定されているものの、宣伝費、印刷物デザイン費、印刷費、試写会開催費などの必要資金が全くありません。どうかその資金作りにご協力いただけますと幸いです。詳しくは「⑤劇場公開にかかる経費と公開までのスケジュール」をご参照下さい。
◎製作地(南三陸町)への還元
今回多くの方のご協力をいただいてはじめて実現できる劇場公開ですので、最終的な収益のすべてを映画製作のための活動資金に充てるのではなく、その一部を南三陸町に還元したいと考えています。現時点でどのくらいの規模のことができるかは分かりませんが、具体的には、波伝谷が属する戸倉地区の震災前の風景写真の寄贈などを考えています。
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◎映画のあらすじ
海の恵みを受けて生きる南三陸の小さな漁村「波伝谷」。2008年3月から2011年3月11日にかけて、キャメラはこの地に生きる人びとの日常を撮り続けた。
宮城県南三陸町の海沿いに位置する80戸余りの小さな漁村「波伝谷」。
そこには豊かな海と山があり、人びとは牡蠣・ホヤ・ワカメなどの養殖と丘陵地での農業を営み、暮らしていた。
共同の牡蠣剥き場で明け方から作業をする女たち。
収穫まで3年かかるホヤの生育を祈りながら黙々と海辺に通う男たち。
そこには、自然の豊かさと厳しさに寄り添いながら、地域に残る「結い」や「講」といったシステムを悩みつつ継承し、日々の暮らしを懸命に生きる「普通の」人びとがいた。
2008年3月、そんな波伝谷にキャメラを持った一人の若者がやってくる。
はじめ、大学の研究のために波伝谷を訪れた彼は、地域住民総出で行われる獅子舞の行事に心を奪われ、そのエネルギーの源泉に触れようと一人で波伝谷に通い続ける。そのキャメラにおさめた映像を、やがて映画にするために。
それから3年後の、2011年3月11日。
その日彼は、翌日予定されていた地域の会合で映画の試写会の日取りを決めようと、波伝谷に向かった。
◎作品データ
ピーストゥリー・プロダクツ製作/我妻和樹監督
2014年/日本/HDカラー/16:9/134分
<公式サイト>
http://hadenyaniikiru.wix.com/peacetree
<作品PR資料>
http://yahoo.jp/box/ZTM2fP
<ツイッター>
https://twitter.com/hadenyani_ikiru
<フェイスブック>
https://www.facebook.com/hadenyaniikiruhitobito
<予告編>
◎主な映画祭出品暦
・第13回山形国際ドキュメンタリー映画祭「ともにある Cinema with Us」(2013/10)
・第28回福岡アジア映画祭(2014/7)
・第12回ヒューマンドキュメンタリー映画祭《阿倍野》(2014/8)
・第36回ぴあフィルムフェスティバル「PFFアワード2014」 「日本映画ペンクラブ賞」受賞(2014/9)
※その他10の団体による自主上映会で上映される。
◎監督プロフィール
我妻和樹(あがつま・かずき)
1985年宮城県白石市生まれ。2004年4月に東北学院大学文学部史学科に入学。翌2005年3月より、同大学の民俗学研究室と東北歴史博物館の共同による、宮城県本吉郡南三陸町戸倉地区波伝谷での民俗調査に参加。中心メンバーの一人として活動を続け、2008年3月発行の報告書「波伝谷の民俗ー宮城県南三陸沿岸の村落における暮らしの諸相ー」では執筆も担当する。
報告書の完成とともに大学を卒業し、以後個人で波伝谷でのドキュメンタリー映画製作を開始。2011年3月11日の東日本大震災時には自身も現地で被災し、その後の撮影と並行しながら震災までの240時間の映像を編集。そして製作に約6年の歳月を費やした初監督作品『波伝谷に生きる人びと』は、2013年8月15日に行われた波伝谷での試写会をもって完成となり、同年10月に行われた第13回山形国際ドキュメンタリー映画祭の震災関連映画特集「ともにある Cinema with Us」にて初公開となった(初公開時は128分)。
現在はピーストゥリー・プロダクツとして上映会を主宰し、2014年1月には南三陸町での完成披露上映会、夏には宮城県沿岸部を中心とした11市町での縦断上映会を開催している。本作以前の映像作品には、『鍛冶屋の町の守り神ー南鍛冶町三宝荒神社の2年間ー』(東北学院大学民俗学研究会/2008年/105分)、『誰もが映画を楽しむためのプロセス~バリアフリー上映への道のり~』(仙台短篇映画祭/2013年/28分)などがある。
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私・我妻和樹は震災後ピーストゥリー・プロダクツとして映像製作や自作の上映活動を続けていますが、その中でも一番大きい事業が、『波伝谷に生きる人びと』上映実行委員会を組織して、2014年の夏(7月~9月)に開催した宮城県沿岸部縦断上映会(全会場無料)です。
この上映会は、「震災から3年を機に、沿岸部全体でかつての人の生き方、故郷のあり方を見つめ直し、被災地の『未来』について考えたい」という主旨のもと、山元町・亘理町・名取市・仙台市・塩竈市・東松島市・石巻市・女川町・登米市・南三陸町・気仙沼市の11市町を会場に行いました。前後には監督の地元白石市のみやぎ・しろいしフィルムコミッション主催による壮行記念特別上映会、母校東北学院大学の民俗学研究室主催による上映会&講演会が行われるなど、多くの地元の方のご協力を得て、延べ2か月に亘る上映会を無事終了することができました。
上映会では可能な限り地元で活動する若者や文化的団体との対談の場を設け、観客との質疑応答の機会を大事にしました。それは決して分かりやすい答えや結論を導くものではありませんでしたが、ともに考えるという行為そのものの重要性を再確認する機会でもあったと感じています。
①震災から4度目の夏を迎えた女川町。沿岸部にはいまだに被災の爪痕がある。/②会場は公民館等の公共施設を使用。その多くは震災時に避難所としても使われた。/③上映会に集う観客。計11会場と前後の関連企画で600人以上の人が訪れた。/④全会場、上映後には監督があいさつし、思いを語った。/⑤山元町、仙台市、登米市では、上映後に地元で活動するNPOメンバー等と対談を行った。⑥客席からも積極的に発言する人が見られた。/⑦上映会に関わってくれた協力者と各地で友好を深めた。/⑧縦断上映前には監督の地元白石市で壮行記念特別上映会が開催された。⑨縦断上映後には監督の母校東北学院大学で上映会&講演会が開催された。
<宮城県沿岸部縦断上映会実施報告書>
<『波伝谷に生きる人びと』宮城県沿岸部縦断上映会を終えて(助けあいジャパンより)>
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「この映画には、かの小川紳介にも佐藤真にも撮ることができなかった“むら”の姿が描かれている。」
この一文は、『モバイルハウスのつくりかた』などで知られている映画監督の本田孝義氏が作品に寄せてくれたコメントです。小川紳介、佐藤真といえば、この世界の人間なら誰でも知っているドキュメンタリー映画の礎を築いてきた人物ですが、当然ながら僕も『波伝谷に生きる人びと』を製作する上ではこの二人の映画監督を意識せざるを得ませんでした。
何故ならこの二人の映画監督は、その初期の代表作でも知られているように、時間をかけて対象との関係を築き、地元の人の目線から「土地に生きる」ということを表現しようとした人物だからです。そんなドキュメンタリーの古典とも王道ともいえる作品の系譜に位置づけられる本作ですが、あえてそれらの作品との違いを挙げるとするならば、この映画にはキャメラをかまえた作者自身のプライベートな視点が色濃く反映されているというところにあるかもしれません。
波伝谷という一つの小さな世界の中で、互いに深く関わりあいながら生きている人びとが織り成す群像劇。そこから浮かび上がるコミュニティの普遍的な姿。
映画『波伝谷に生きる人びと』は、波伝谷という一つの小さな世界の中で、互いに深く関わりあいながら生きている人びとの日常と、その豊かで複雑な世界に分け入る作者自身を描いた作品です。
東日本大震災の津波でほとんどが壊滅してしまったこの波伝谷ですが、もともと僕と波伝谷との出会いは、当時在学していた東北学院大学の民俗学研究室と、東北歴史博物館の共同による民俗調査に、学生の一員として参加したのがきっかけでした。そうしてはじめて波伝谷を訪れたのが、大学1年も終わりに差し掛かった2005年の3月12日。映画の冒頭にも登場する波伝谷最大の行事「お獅子様」(オススサマ)を翌日に控えた日のことでした。ですのでそれからもう10年もの間、波伝谷のみなさんとはもともと他人だったとは思えないほどに身近な、けれどもどこか遠いような、不思議な関係を続けています。
「波伝谷の一体どこにそんなに惹かれたのか」。長年入り続け、表現を続けていると、往々にしてそれが分からなくなることもありました。しかし一通り思いを廻らして原点に戻ると、その答えはとても簡単なものであることに気付きます。一言で言うならば、それはやはり地域のつながりであることにほかなりません。
波伝谷の人たち(のみならず東北の人たち)は、自分たちが住む地域のことを、愛着を持って「部落」と呼びます。この言葉が、僕はとても好きです。何故なら、そこには「集落」とか「故郷」といった言葉のニュアンスとはまた違い、そこに住む一人ひとりが主人公で、お互いの人生が複雑に絡み合い、影響を与え合いながら生きている人たちの、滑稽ながらも愛おしい「人間らしさ」を感じるからです。
「地域の結びつきが強い」というと、どこかノスタルジックでいかにも美しいイメージを持たれがちです。震災後に被災地支援で東北に入った人たちの中にも、そんな地域の良い表情を見せられては、「素敵なところ」あるいは「温かい人たち」という印象を抱いた人も多いのではないでしょうか。
しかし実際には、結びつきが強いがゆえの面倒なことであったり、しがらみであったり、そこには一筋縄ではいかないさまざまな「負」の側面も存在します。そしてこうした側面は、往々にしてそこに生活する当事者にとってやっかいな問題を生み出したりもします。しかしそれも含め、一人の人間の中に多様な社会が存在し、そこにさまざまな人との縁が開かれているからこそ、人が人として成長することもできる。そんな土地に生きる上で切り離すことのできないややこしさに頭を抱えつつ、一方ではそこに喜びや生きがいを見出しながら生きている人びとの姿を、僕は学生時代にたくさん見てきたつもりでした。
長い時間をかけて、地元の人との関係を築いたからこそ見えてきたくらしの文脈と、そこでの人のつながり。「土地とともに生きる」ということが一体どういうことなのか。波伝谷という一つの小さな世界の中で、互いに深く関わりあい、ときに葛藤しながら生きている人びとの姿を、その瞬間を生きる人びとの表情と言葉をもって伝えたい。そうして2008年3月の大学卒業と同時に、僕の波伝谷でのドキュメンタリー映画製作がはじまったのでした。
人が生きている限り、人の営みは続いていく。映画の中で輪廻するある時代の「記憶」と、現在に連なる「時間」。
それからの撮影は、僕が予想していた以上に大変だったことはもはや言うまでもありません。何せ映像の下積みも人脈も何もないままはじめた映画製作ですから、壁にぶち当たれば自分で何とかして乗り越えるしかなく、1年で撮り上げるはずの撮影が、2年、3年とズルズル伸びていきました。その間朝昼晩夢の中でも、考えているのは波伝谷のことばかり。そんな強い思いと反比例するかのように、大事な場面では相手の懐に飛び込む勇気がなく、撮りたいものが撮れないことも多々ありました。そして撮影の最後の最後に偶然起きた東日本大震災。自分も現地で被災し、自宅に戻ってからは、キャメラを構える覚悟の無さから、波伝谷の人たちとどう関わればよいのか分からず、目の前の現実と向き合えない期間がかなり長いこと続きました。
それから撮影を再開するまでの自分自身の葛藤は、簡単には筆舌に尽くし難いのですが、それでも震災があろうとなかろうと、自分がずっとやろうとしてきたことを核にして、震災を経て、それ以前の映像を編集することの意味を長い時間をかけて噛み砕き、思いの全てを込めたのが今回の作品です。その意味では、この映画は被災した映画として、良くも悪くも当初想定していたものとは別な視点が付加されることになったのは間違いありません。しかしそこに描かれているものは、震災というテーマを大きく飛び越えて、いつの時代でも、どんな社会であっても共通する、普遍的なものであると僕は信じています。
ある時代を人はどう生きてきたのか。一つの地域社会の歩みとそこでの人の営みを、「波伝谷」という地名が表すように、被災地のシンボルとして丁寧に描きたい。それが僕がこの映画で表現したかったものです。そこには分かりやすい答えや結論などはありません。かつて存在していたはずの土地の空気や人びとの息づかいがあり、明暗ともに飾り気のない生活感があり、登場人物たちがそれぞれに波伝谷の時間を生きている。ただそれだけのことです。
そこに流れている時間は、映像として映された瞬間に、もう二度と戻ることのできない時間であり、震災が起きた今ではなおさら「遺影」とも呼べるものなのかもしれません。しかしそれは決して断絶ではなく、今も鮮烈な「記憶」として、映画を観る人びとの時間と結びつき、この瞬間を生きる私たちの時間と地続きになっているはずです。あとはそこから何を感じるかは、観る人それぞれの感性に委ねます。
映像に残された波伝谷の姿は、今や津波によって大きく形を変えてしまいましたが、それでも人が生きている限り、人の営みは続いていく。揺らぎ、戸惑いながらも「部落」というものとともに生きようとする波伝谷の人たちの傍らに、僕も長い時間をかけて寄り添っていこうと思います。
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劇場公開を実現するだけならば、そこまで大きな経費はかからないかと思います。しかしご存知の通り、大手のシネコンでかかる映画にすらあまり観客が入らない中で、然るべき人のもとに情報を届け、老若男女、幅広い世代の人に劇場に足を運んでもらうためには、それだけ宣伝に力を入れなければなりません。 それでいうと、東京で理想的なスタートを切るにあたって2400,000円の資金が必要です。以下がその内約です。
このうち9~11の経費60万円分については、現在集まっている協賛金(クラウドファンディング開始前に376,000円分の申し込み)のほかに、アルバイトでお金を貯めて何とかしたいと考えています。ですのでみなさまにご協力をいただきたいのは、1~8の経費180万円分です。目標金額を2020,000円に設定しているのは、これにモーションギャラリーの手数料10%(+消費税)が加わるためです。
公開までのスケジュールについては、クラウドファンディング開始1ヵ月の時点でどのくらいの規模のことができるかを見極め、2月末から本格的に宣伝を開始したいと考えています。そして約5ヵ月間の宣伝を経て、夏に公開を考えています。
なお、東京公開が終了した時点で一度経費の報告をします。もし協賛金が経費を上回った場合には、その分より南三陸町に還元するほか、地方公開のための資金や作品の英語字幕製作費に充てさせていただきます。
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劇場での公開は決まっているものの、現時点で本当に資金がありません。監督自身にはこれまでの製作(2008年3月~2012年5月までで284日の撮影)や上映活動(波伝谷での3度にわたる試写会、南三陸町での完成披露上映会、宮城県沿岸部縦断上映会、その他の上映会の開催)で蓄えが全く無く、英語字幕制作費(40万円強)と音楽使用料支払いのためにすでに銀行に借金をしているため、現在の給料ではその枠を増やすことができませんでした。
また大学卒業以来ずっと夜勤のアルバイトを続けていますが、津波で親の車や撮影機材(僕が生まれてから25年間親が掛け続けてきた保険を解約して購入したプロ用のカメラ50万円強など)を流してしまったため、給料の大半は新しい車のローンや税金、奨学金支払いのために無くなります。そして次男なのに未だに実家から出ることができず、親に負担を掛け続け(震災後、親に数十万円の借金をして撮影していた時期がありました)、上映会開催ではおじさん方にも応援してもらっているため、これ以上家族・親族に迷惑はかけられません。
しかし今年の10月に隔年開催の山形国際ドキュメンタリー映画祭が開かれるため、それまでには何とかして東京公開を実現したいと考えています。(前回の映画祭で上映された作品が未だに劇場公開できていないのはどうかということと、そこで新作を発表できたらなお良いので。)ですので、もし資金が目標金額に届かなかったとしても、劇場公開は必ず実現します。
では仮に240万円の資金の半分しか集まらなかったとして、残りの120万円を挽回するためにはどのくらいの動員が必要なのでしょうか?仮にチケットが前売り券や招待券を差し引いて平均1,400円だとして、2,000人の動員が見込めれば280万円の売り上げになります。このうち半分は劇場に支払うため、こちらの収入は半分の140万円になります。これなら赤字が出なくて済むかもしれません。
しかし2,000人の観客を動員するということは、仮に劇場で3週間公開してくれるとなった場合、一日に95人動員しなければならないということであり、現在の映画事情ではかなり大変なことなのです。また仮に利益が生じたとしても、そのお金はその後の地方公開のための宣伝費、印刷費、郵送費、出張費などに使われるため、最終的な利益というのはそこまで大きなものではありません。しかしそのお金で映画監督は映画を作り続けることができるのです。
良い映画だからといって、すべての映画が劇場公開できないのはこのような金銭的な事情によります。ましてやドキュメンタリーの場合、一般的な需要は他の映画と比べてかなり低くなることが予想されるので、その分お金をかけて、この広い東京で一生懸命宣伝しなければなりません。そして東京でどれだけ観客を動員できたかが、地方の映画館で作品を公開するための鍵になります。つまりお金が無いからといって宣伝規模を縮小すれば、作品にとって全く良い結果を生み出さないことは明白なのです。
ここまで10年かけた作品ですので、作った人間としてはできる限りの手を尽くして多くの観客のもとに届けたいと思っています。また個人的な思い入れはもちろんのこと、これまで作品を気に入り、応援してくださった方々のためにも、パンフレットなどもしっかり作りたいと考えています。そのためにも、どうかみなさまのご協力をお願いいたします。
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プロジェクトをサポートしてくださったみなさまについては、金額に応じてさまざまな特典をご用意しております。また特典には個人用と企業・団体用の2種類があります。詳細はリターンの欄をご参照ください。
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この記事を作るにあたり、モーションギャラリー内のほかのプロジェクトの記事もたくさん参考にしました。結果、他の記事よりも大分ボリュームのある記事になってしまったように思います。ここまで真面目に読んでくださったみなさま、本当にありがとうございます。(できることなら拡散にご協力いただけますとなお嬉しいです。)
また今回全国劇場公開を目指すに当たり、いろいろな映画関係者に話を聞きました。結果、ほとんどの人から200万円は必要とのアドバイスをいただきました。これが「東京で公開できてよかった」で満足するのであれば、もっと少ない資金でもできるかもしれません。でも何度も言うように、僕はこの作品をできるかぎりの手を尽くして全国の観客のもとに届けたいと思っています。ただやればいいというわけではありません。
そこまでして劇場公開を成功させたいのは、やはり震災前の人の営み、コミュニティの普遍的な姿、積み重ねてきた歴史やそこに流れていた時間、そして何気ない日常の中にある幸福や苦悩を一人でも多くの人に観てもらいたいからです。波伝谷の人たちの魅力に触れて、その生き方から自分たちの足元を支える世界、身近な人とのつながりについて何かを感じて欲しいからです。
監督の夢も涙もお金も時間も労力も性欲も青春の総てを注いだ本作ですが、どうかこの映画の可能性に共感してくださる方からのご協力をお待ちしております。どうぞよろしくお願いいたします。
2015年1月27日(火)ピーストゥリー・プロダクツ 代表・監督 我妻和樹
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ドキュメンタリー映画『波伝谷に生きる人びと』は、独立映画鍋メンバーのプロジェクトです。独立映画鍋は多様な映画を支え育む為に活動しているNPOです
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