『波伝谷に生きる人びと』の舞台を知る⑩~波伝谷と津波~
vol. 31 2015-02-22 0
こんばんは。プロジェクトマネージャーの野村です。
昨日から3.11映画祭が開幕しました。映画とともに震災を考えるひとときに『波伝谷に生きる人びと』が映す「震災前」がどのような意味を持つのか、他の27本の作品とともにご覧いただきながら、考えてみてはいかがでしょうか。(3.11映画祭公式サイト)
さて、『波伝谷に生きる人びとの舞台』を知る、10回目の今日は波伝谷を語る時に避けては通れない津波のお話です。
震災前、波伝谷には80軒ほどの家が立ち並んでいましたが、東日本大震災による津波では1軒しか残りませんでした(その1軒も全壊)。また部落の住民も16名の方が犠牲になったそうです。波伝谷の地名の由来にある大波も津波だったのかもしれませんが、波伝谷をはじめ三陸沿岸は度々津波災害に見舞われてきました。そのうち明治以降、東日本大震災までに起きた3回の津波は波伝谷にも少なからず影響を与えてきましたといいます。
震災前の集落の家並みは、明治29年の明治三陸津波の影響があるといわれていました。波伝谷の北東側より襲った津波は、当時多くの家が立ち並んでいた字波伝谷の海岸側の家々を飲み込み、そのため被災した家々の一部は波伝谷内の別の場所へと転居したといいます。そうした家すらも今回の津波で被災してしまったのです。
また昭和8年の昭和三陸津波では、志津川湾の波高は高くなかったとされますが、波伝谷でも「地震があったら 津波の用心」という石碑が建てられ、教訓を次世代に継承するための活動が行われていました。
養殖漁業の契機ともいわれる昭和35年のチリ地震津波は、津波に先立つ地震がなく、早朝に来襲したことなどから多くの人が気付かなかったといいます。波伝谷では早朝より田仕事に出ていた人が異変に気づいて、近くの人に伝え、大声で触れ回ったことから被害が小さくて済んだといわれています。この津波によって家屋の倒壊までには至りませんでしたが、浸水被害は大きかったといいます。
津波を知り、そのための備えを怠らず、異変にさえ気づいて行動する波伝谷の人びとにとって、予想を超える被害をもたらした東日本大震災による津波は、1000年に1度とも400年に1度ともいわれています。次の備えをどのようにすれば良いのか、津波常襲地ともいわれる三陸沿岸の模索は復興の槌音とともに続きます。
(参考資料『波伝谷の民俗ー宮城県南三陸沿岸の村落における暮らしの諸相ー』)