試写後のご感想をご紹介します!
vol. 25 2024-07-29 0
佐藤壮広さん(山梨学院大学特任准教授)がご感想をお寄せくださいました。佐藤さんありがとうございます!https://www.facebook.com/callsato
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映画監督は、劇場とはどんな場所なのかをよく知っている。そのような人間が、劇場の終わりのときを撮る。閉館そして建物の解体へと逆戻りできない時間が進むなか、真喜屋監督は劇場自体が記憶している人々の娯楽のひとときをフィルムに記録する。
照明が落ちた、誰もいない劇場の客席の椅子、椅子、椅子。たくさんのひとがそこに腰を下ろし、ワクワクしながらスクリーンを観ただろう。拍手と笑顔を送りながら、芝居を観ただろう。静まり返った劇場の映像を見ているうちに、そうした様子が浮かんでくるから不思議なものだ。いや、これは不思議なことではない。劇場とはそのような場所なのだと、監督自身がよく知っているのだ。映画「劇場が終わるとき」は、われわれひとりひとりに、街に劇場が在ることの意味を語りかけてくる。
この映画には、写真家の石川真生が、撮るひととして出演している。つまり映画は“石川真生が劇場の終わりを撮る姿”を撮った作品でもある。カメラのシャッターを切るカシャ、カシャという音が、この映画のSE、挿入音楽にもなっている。ファインダーを覗き、情景をフレームにおさめているのは石川真生そのひとだが、観るわれわれはそのシャッター音を聞き、フレームにピン留めされた写真1枚1枚を想像する。
劇場内の廃品を整理するシーンでは、動くことをやめた映写機や、色褪せたロールフィルムが目に入る。それらはどんな映像を映し出したのか、またそれを観た人たちはどんな思いで楽しんだのか。われわれの想像は尽きることがない。劇場、映像メディアは、そうした時空を超えた想像を後押ししてくれる場所であり装置だ。「劇場は終わるけれど、あのシーン、あの思い出は残っているでしょ」と、監督の声が聴こえてくる作品である。