6/12 映画『世界でいちばん長い写真』レビュー
vol. 6 2020-06-12 0
『世界でいちばん長い写真』(2018)
監督・脚本:草野翔吾
あらすじ
内気で卑屈な高校生のノロブー(ひろのぶ)。なんとなく所属している写真部では定期的に品評会を行っているが、あまり精が出ない。そんな態度を、品評会では常に大賞の部長・三好は快く思っていない。
ある日ノロブーは、いとこの温子が働いているリサイクルショップで、古くてごっついパノラマカメラを見つける。360°の景色を写すそのカメラの虜になったノロブーは、良いロケーションを求めて走り回る。
クラス委員も兼任する三好はそんなノロブーに気づき、文化祭での卒業記念イベントとして“世界でいちばん長い写真”の撮影を提案し、その実行委員長にノロブーは任命された。
文化祭当日、ノロブーを文字通り中心にして、温子らやクラス委員の面々、そして3年生全体を巻き込んだ大撮影会が始まる。
友達を作るのは難しい。「友とは何か」なんてことを考えるのはアホらしいから、感覚的に友達だと思える人を数えてみると、やっぱり少ないもんである。
コミュニケーションが不得手な僕にも、親しい人は幾らかできる。しかし彼らは先輩・後輩であり、恋人であり、同僚であり、友ではない。気兼ねなく接することができるとは言い難い。
友とは、完全に気兼ねなく対話できる人のことだろうか。
こんな逸話がある。ある学生二人が「友とは」という議論において意見が食い違った。彼らの論争は激しさを増していき、四十年が経ったのちも決着はつかなかった。ついに片方がその生涯に幕を下ろし、彼の棺を覗いた老人はこう悟った。「四十幾年も互いの論を戦わせ続けたコヤツこそが、最愛の友であった」と。この時「友は死んだ!」と叫んだのがかの有名なミーチェである。
いやはや、「友とは何か」を考察するつもりはないのである。
それにしても、まだ会ったばかりなのに友達面をしてくる人には困ってしまう。フレンドリーは時に押し付けとなる。僕はまだあなたをそんなに信用していない。あなたは僕を信用できるの。
友とは、互いに信用し切った関係の事をいうのだろうか。
こんな逸話がある。フランスの哲学者・テカルトは、幼馴染と酒を飲んでいた。幼馴染がテカルトに「俺ら親友よな」と問うた。テカルトは黙りこくって考え始めた。コニャックが一瓶空いた時テカルトはようやく「ああ」と答えた。すると幼馴染は「そんな悩む?」と言い残し店を出て行ってしまった。この時テカルトが呟いたのが「我思う、故に難あり」という言葉である。
ダメだ。「友とは何か」を語るつもりはないのだ。なのに、嗚呼、そうだ。僕は「友とは何か」を考えずにはいられないのだ。そのせいで何人の友を見落としてきたのだろう。何人の友を見過ごしていくのだろう。ミーチェのように、テカルトのように。
ノロブーの周りには、その性格故か友達は少ない。年上のいとこやその先輩、写真屋の主人、卒業したら疎遠になるであろう同級生たち。誰もかれもその時居合わせただけに過ぎない。
ただそれだけの集団が、目的をもって同じ方向に動き出す。そこに生まれるこの輝きはなんだろう。友情とは違う。もっと刹那的でエネルギーに充ちた鼓動の重なり。
5分ほどの撮影会、鼓動のうねりは最高潮を迎える。「やろうとしないだけで、本当は何でもできる」一人一人の鼓動が聞こえる。友達だとか、この場限りとかはどうでもよくて、目的を共有する仲間が確かにそこにいるのだ。
「友とは何か」に囚われていては、せっかく居合わせた人の顔が見えなくなってしまう。もっと簡単でいい。一時的でいい。一時的でも、同じ目的を持つ仲間となら何でもできる。
『SANSO』の面々の中には、まだ会ったこともない人もいる。友達になれるかな、なんて心配はしていない。『SANSO』という花火を打ち上げるために居合わせた仲間であることに違いはないのだ。応援をくれる貴方だって。
劇団FAX
髙野亮太郎