小町碧×林田直樹×オヤマダアツシ 「真実のディーリアスを語る」Part3を公開!
vol. 14 2017-12-07 0
※Part2からの続き
●深い悲しみとまぶしさと柔らかさと
林田 せっかくですから、このCDから1曲かけましょうか。
オヤマダ じゃあ最初に、おそらくぼく自身もそうなんですけど、ディーリアスの音楽をはじめて聴いて、「なんだこれは?」って思った曲を。CDの1曲めに入っている《春はじめてのカッコウを聴いて》っていう曲です。
♪ディーリアス:《春はじめてのカッコウを聴いて》
ハンドリー(指揮)、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
V.A.『フレデリック・ディーリアスの音楽~楽園への道』(ワーナーミュージック・ジャパン)より
オヤマダ 不思議な感じの音楽ですね。ここにいらっしゃるみなさんも聴いて、とくに違和感がないんじゃないかなと思うんですけれども。
林田 なんとなくBGMとして通り過ぎてしまうことも可能な音楽ですよね。
オヤマダ イギリス絵画展とかの会場で流してもぜんぜんおかしくない。
林田 そうそう。でも、耳をちょっと深く傾けると、ものすごく心を捉える音楽だと思うんですよ。ぼくもこの曲からはじめて聴いたんですが、「おや待てよ、これはなんだ?」と思ったときの体の感覚がいまでも残っていて、これはとてつもない音楽だぞって思ったんですよ。なんかすごく深い悲しみが秘められている。でも光はまぶしくて柔らかくて──この世界観は、ぜったいに他の作曲家にはない何かなんです。
オヤマダ そこがディーリアスがなかなか聴かれないひとつの要因かもしれませんね。音楽史の中で、たとえば同じ世代だと、1860年代生まれだからマーラーとか、リヒャルト・シュトラウス、ドビュッシーとかシベリウスとかがそのあたりの生まれなんですが、そのどれでもないわけなんですよね。そのなかでは、リヒャルト・シュトラウスあたりがいちばん近いのかもしれませんが。
林田 近いですね。
オヤマダ それでもやはり音楽のとらえ方じたいがまったく違う。音楽的なことをちょっと言えば、小町さんがいらっしゃるからうかがいたいんですが、いわゆる機能和声のセオリーからははずれていない音楽じゃないですか。でも、バックで流れている弦のハーモニーは、それでは片付けられない。教会旋法なのかもしれないし、なんだこれっていうような音の重ね方をしてるんですね。ピアノで弾いてみると、おそらくメジャーセヴンス系のコードとマイナーセヴンス系のコードを行ったり来たりしてるような、その変な浮遊感っていうかな。この音楽はどこにたどり着くんだろうというようなところがあって、こんな聴きやすい曲であっても、そういう音の響かせ方をしているのが、たぶんこの人のいちばんの特徴だろうし、いちばんとっつきにくいところでもあるだろうし。おそらくこういうハーモニーを聴いて、「ちょっと気持ち悪いからいいや」って思う人もいるはずなんですよ。そのへんについて、小町さんはどう思われますか?
小町 そうですね。ディーリアスの音楽って、メロディだけをとるとどこかで聴いたようなメロディのように思うんですね。でもその下に複雑なハーモニーが重なると、とても複雑な印象を受けるんです。演奏家にとっては、やはりどちらかというとけっこう弾きにくいほうで、こんな飛び方をするのか、ここでこう来たかっていう感じの展開がたくさんあるんです。ヴァイオリン・ソナタでも、けっこうそういう部分はたくさんんですけれども、ヴァイオリンよりもピアノのほうがそういう複雑な飛び方をするので、ピアニストにとってはものすごく弾きにくい曲だと思うんです。
それで、ハーモニーの構成にとらわれないというのが、ディーリアスのポリシーだったんですけど、でもそれでもどこかには向かってるんですね。エリック・フェンビーがこの『ソング・オブ・サマー』のあとに、ディーリアスの音楽をどういうふうに解釈し、どういうふうに演奏したらよいかという本を書いているんですけど、そこではディーリアスの音楽には必ず中心となる音があると言っているんですね。英語ではcentral noteって言いますけど、調性がなくても必ずどこかにルーツがあって、そこから音楽が発展してゆくので、つねにそのルートとなる音を感じ取ればいいと言ってるんですね。
オヤマダ いまお話をうかがって、この曲を一生懸命聴いていくと、たとえばハーモニーの動きはふわふわしてるんだけど、基本となる音がどういうふうに動くかについては、わりとわかりやすいですよね。それがベース・ラインというわけじゃないかもしれないし。何か中心となる音とおっしゃったけど、そのへんがつかめればかなりわかりやすいのかなっていう気はちょっとはしてるんですけど。
せっかくなのでもう一曲だけ、1分くらいの短い曲を聴いていただきましょう。この曲はほんとにもう楽譜見てもよくわかんないんです。この音どうやってできてるの?って。ピアノなどの伴奏が何もない無伴奏合唱だけの曲で、《夏の夜、水の上で歌える》というひじょうに詩的な日本語の題名がついてる。これを訳したのはさっきも話してた三浦淳史さんていう方なんですけれども、この1曲目をちょっと聴いてもらいましょう。
♪ディーリアス:《夏の夜、水の上で歌える》
第1曲「ゆっくりと、しかしだれることがないように」
レッジャー(指揮)、キングズ・カレッジ合唱団
V.A.『フレデリック・ディーリアスの音楽~楽園への道』(ワーナーミュージック・ジャパン)より
オヤマダ 聴いてるだけだと、夏の夜にホタルがたくさん舞っているようなとても幻想的な曲なんですけど、この曲をじつはエリック・フェンビーさんがのちに弦楽合奏のためにアレンジして、《2つの水彩画》というタイトルで出版しているんですが、これには個人的な思い出があって、一度その弦楽合奏版をアマチュア・オーケストラがやりたいと言ってきて、練習に行ったことがあるんですよ。で、1回目の練習を始めたんですが、ぜんぜん練習にならないんです。1小節進むごとにヴァイオリンの人から「この音で大丈夫ですか」、次の1小節進むとヴィオラの人が「こうなってるんですけど、これ大丈夫ですか」(笑)。ふつうの人が譜面どおりに弾けないくらいちょっと不思議な音で、全員でやるといま聴いていただいたような音になるんですが、ひとりひとりが弾くと「え、この音大丈夫なの?」ということの連続で、けっきょくその曲はやらずに終わったんですよ。
ディーリアスの音楽っておそらくプロの人でも迷うんだと思うんですよ。さっき小町さんがおっしゃっていたピアノ伴奏もそうですが、ほんとにこの音で大丈夫なの?という、とくにヴィオラとかチェロなど内声部にはそういうところがあるから、それも含めて日本では慣れていないので演奏してもらえないところもあるのかもしれない。聴くぶんには、ほんとにきれいな音楽なんですけど。
林田 注意深く聴いてみると、メインのメロディの裏に対旋律──裏のメロディがあって、その裏のメロディがじつにユニークな音の動きをしていますね。このメロディにこういう裏メロをあてるんだっていう、その驚きが、注意深く聴くときの喜びというか、ポイントじゃないかなと思います。表のいちばんめだつきれいなメロディだけじゃなくて、その裏で起きていることを感じたときに、ディーリアスの音楽の深さがわかる。ディーリアスの音楽って、たぶんすべてそうだと思うんですけど、その世界にいったん入っていくと、この世界全体の見え方とか風景が、ちょっと変わるんですよ。そういう力があるような気がする。
●ディーリアスとヴァイオリン・ソナタ
林田 さて、こんど11月1日に、もうあと数日なんですけれど、小町さんが銀座の王子ホールでこの本の出版記念リサイタルをなさるんですが、それがディーリアスのヴァイオリン・ソナタ全曲演奏会ということになってるんですよね。いまオヤマダさんからそのディーリアスの音楽の作られ方、秘密についての話があったので、その流れで、小町さんの目から見たディーリアスのヴァイオリン・ソナタ全曲についてお話しくださいますか?
このリサイタル、もともとは何人かの作曲家の曲で構成するというアイディアもあったんですが、いや、出版記念リサイタルだからこのさい全曲ディーリアスでと、なかば強引にヴァイオリン・ソナタ全曲演奏会にしていただいちゃったんですけれど、ヴァイオリニストにとってはこれはかなりチャレンジングなことですよね。
小町 そうですね。4曲とも、ディーリアスの作曲する意図が、まったく違うところから来ているので、全部並べてみると、「あ、なるほど、ここから始まって、最後の第3番でここまで来たのか」と、どういうふうに発展していったかがすごくよくわかるんですね。今回、ヴァイオリン・ソナタ全曲演奏会にしてほんとによかったと思っているんですけど。まだイギリスでもこういう全曲演奏会は開かれていないので、おそらく史上初のプログラムだと思います。
林田 演奏の順番は、作曲された順番と同じですか?
小町 はい、そうです。最初の《遺作》ソナタは1892年に書かれているんですけど、そのあと第1番が1905年から1914年のあいだに書かれていて、すでに遺作から次のソナタまでのあいだに22年ものブランクがあるんですね。その間にいったい何があったのかをみるのがすごく面白くて、もうまったく違う作曲家のような作品なんですけど、でも最終的に第3番をみると全部つながるんです、全部を統合したような作品が第3番なんですね。ひとつひとつの作品は個性的でありながらも、第3番ですべてがつながる──その点がすごく面白いなと。
林田 ディーリアスって、いわゆるソナタのような曲が、他の作曲家にくらべるとそれほど多くないのではないかというイメージがあったんですよ。オヤマダさんの選曲したこのコンピレーション・アルバムもそうですけど、どちらかというと標題音楽が多いですよね。さっきの《夏の夜、水の上で歌える》とか、まるでドビュッシーみたいにある風景とかイメージをタイトルにした曲が多いじゃないですか。でも、ヴァイオリン・ソナタは、ソナタというだけで、そのあとに「夏の夜」とか、そういうタイトルも付いてないですよね。ディーリアスのなかでも、ただソナタというだけの古典的な曲を、まとめて演奏するというのはさらにめずらしいことだと思うんですが、ディーリアスはソナタというものについて、どう考えていたんでしょうか。
小町 一作目の《遺作》ソナタが作曲されたのは1892年で、グリーグからの影響がすごく強かったときなんですけど、この作品は構成をすごく意識しているんですね。ちゃんと主題と展開部と再現部があるんですけども、でも3楽章に移ると徐々にそこからちょっとずつはみ出していくんです。ですから、この1曲のなかでももうすでに発展がみられるんですが、第1番から第3番においては、構成というものがすでにまったくなくなっているんですね。第1番は1905年に作曲を始めているんですけど、そのころにはディーリアスはすでに《人生のミサ》とか《海流》とか、大作を次々と生み出していったころで、オーケストレーションとか、大きい編成の響きというものからすごくインスピレーションを受けていたころだと思うんですね。ですから、より大きなスケールで室内楽の曲を振り返って作曲したという感じが、すごく反映されていると思います。
なぜディーリアスがソナタに統一したかっていうのも、すごく面白い点だと思います。ひとつのジャンルとしてまとめたかったということもあると思うんですね。やはり彼の中で、ヴァイオリンという楽器はいちばん近い楽器だったんだと思うんです。幼いころからヴァイオリンのレッスンを受けていて、父親のビジネスの関係ではじめてドイツに派遣されたときは、ハンス・ジットという教授からヴァイオリンのレッスンを受けています。その点ではディーリアスの作品表を見ると、ヴァイオリン・ソナタは4曲作曲していますけど、チェロは1曲だけで、ヴィオラ・ソナタはありません。ピアノのソナタもないんです。
林田 そうですね。ソナタというものじたい、ディーリアスの作品の中ではあまり見ないですよね。それなのにヴァイオリン・ソナタだけ、遺作を含めて4つ書いてるのは、かなり突出してますよね。
小町 そうですね。
林田 11月1日は、ヴァイオリン・ソナタという視点からディーリアスという作曲家を体験できるというまたとない機会だと思います。
いま、せっかく小町さんがヴァイオリンを持ってきてくださっているので、いまお話のあったディーリアスのヴァイオリン・ソナタの中のどれかを、ちょっと弾いていただいてもいいですかね。
小町 では、この『ソング・オブ・サマー』に出てくるとても象徴的なシーンなんですけど、はじめてディーリアスとフェンビーが口述で作曲する共同作業にチャレンジするシーンで、ディーリアスが「タータター、タータター」とひたすらフェンビーに向かって言うんですけど、フェンビーははじめての経験ですし、じっさいにディーリアスの歌う「タータター」というのがメロディに聞こえてこなくて、楽譜を書こうとしても追いつけない。それでとっても感情的になるシーンがあるんですけれども、それはじつはディーリアスのヴァイオリン・ソナタ第3番の中間部に出てくるメロディなんですね。ディーリアスはこのソナタのこのメロディから始めたんだ、作曲を始めたんだということが、とっても印象的で、このソナタのこのフレーズに差しかかると、いつもこの『ソング・オブ・サマー』のシーンを思い浮かべるんです。ぜひそのメロディを聴いてみてください。
♪ディーリアス:ヴァイオリン・ソナタ第3番
小町碧(ヴァイオリン)
※生演奏
林田 このメロディはほんとうに印象的なメロディですよね。オヤマダさん、いかがですか?
オヤマダ いまのメロディは、リズム的にはいわゆるバルカローレ(舟歌)に近くて、他のディーリアスの曲にも出てきます。ふつうのオーケストラの曲にもありますね。フランスのディーリアスが住んでいた家って、一回も行ったことがないんでわからないんですが、ものの本によると川が庭を流れていて、夏のあいだはいつも小舟を浮かべて舟遊びをしていたらしいですね。そういう自分の体験というか、日常みたいなものがそういうところに出てるのかもしれませんね。
林田 いま小町さんがおっしゃったんですけれど、このソナタをまんなかのメロディから書き始めるという感覚が面白いですね。文章の場合は頭から書いていくので、まんなかの文章から書くことってまずないですよね。絵だったらキャンヴァスのまんなかから描いていくっていうこともあるのかもしれませんけれど、作曲ってペンを走らせるというイメージがあるから、やはり第1楽章の頭からというイメージがあるんですが、けっしてそんなことはなくて、中心となるメロディから書いていく──第2楽章でしたっけ、これ?
小町 はい。
林田 それはほんとにユニークだなと思いますね。
小町 そうですね。私は「ディーリアスとゴーギャン」というテーマで研究をしているんですが、『ネヴァーモア』というゴーギャンの絵があります。この『ネヴァーモア』というタイトルは、エドガー・アラン・ポーの「大鴉」という詩から来てるんですね。エドガー・アラン・ポーのその詩や、彼のエッセイは、その時代の多くの作曲家や画家、作家たちなどにとても影響をあたえていたんですけども、とくにディーリアスやラヴェルやドビュッシーなどその時代の作曲家に、とても読まれていた文章に、エドガー・アラン・ポーの「構成の原理」っていうエッセイがあるんですけれども、そこでポーは「大鴉」の詩を書くときにいちばんのクライマックスから書いたと言ってるんですね。その後ラヴェルがヴァイオリン・ソナタ第2番を作曲したときも、ポーの「構成の原理」を参考にして、第2楽章のいちばんのクライマックスから書き始めた言っています。その時代の作曲家は、エドガー・アラン・ポーをかなり参考にしていたと思うんですね。
ポール・ゴーギャン「ネヴァーモア」(ロンドン、コートールド美術研究所所蔵、London, The Courtauld Institute of Art)
林田 意味深いですね、そこは。
小町 ディーリアスも、「構成の原理」とか「大鴉」をすごく参考にしていたと思うんですね。ゴーギャンからディーリアスが『ネヴァーモア』を買い取ったときに、ゴーギャンは「ディーリアスはきっと、この『ネヴァーモア』というタイトルが好きで自分の絵を買ったんじゃないか」と言ったそうです。ディーリアスにはもうすでに、『ネヴァーモア』とかポーの文章への意識はあったと思うんですけど、このソナタ第3番も中間部から作曲したことを考えると、もしかしたら何かの思いがあってのことなのかなと思います。
林田 せっかくですから、さきほどのメロディがまだご記憶に残っているうちに、この第2楽章をピアノと一緒に合わせるとどうなるか、小町さんの演奏したCDからかけてみましょうか。
小町 はい。
♪ディーリアス:ヴァイオリン・ソナタ第3番
小町碧(ヴァイオリン)、サイモン・キャラハン(ピアノ)
小町碧『カラーズ・オブ・ザ・ハート』(ナクソス・ジャパン)より
林田 繰り返し聴けば聴くほどハマりますよね。やはり弾けば弾くほどハマりますか?
小町 そうですね。毎回新たな発見があって、ああこういう曲だったのかって……また同じようには弾けないですね。
※Part4に続く