小町碧×林田直樹×オヤマダアツシ 「真実のディーリアスを語る」Part1を公開!
vol. 12 2017-12-07 0
小町碧×林田直樹×オヤマダアツシ
「真実のディーリアスを語る」
2017年10月29日 東京・下北沢 本屋B&B
以下は「ディーリアス・プロジェクト」を記念しておこなわれたトークショーの全容です。会にご参加できなかった皆さんにも、ぜひ共有していただきたく公開いたします。ぜひ会場の熱気を分かち合っていただければ幸いです。6回に分けてアップいたします。(林田直樹)
本屋B&Bにて。左より、林田直樹(音楽ジャーナリスト・評論家)、小町碧(ヴァイオリニスト)、オヤマダアツシ(音楽ライター)
●人生の導きの書
林田 今日はこんなたいへんな天気の中、はるばるお集まりくださいまして、どうもありがとうございます。
今回、『ソング・オブ・サマー 真実のディーリアス』という本が出版されまして、じつは私も昨日この本を手に取ったばかりなんですが、手に取った瞬間、こみ上げてくるものがありました。イギリスの音楽にかんする本が出るなんてことは、出版界の常識ではほんとに考えられないことだったんです。別にアニヴァーサリー・イヤーでもなく、ただこの本を読みたいというだけの私の思いを、小町さんが真剣に受け止めて翻訳をしてくださったこと、そしてアルテスパブリッシングの木村さんが、それを形にしてくださったこと。それがまず、私にとってはほんとに大きなことでした。そしてこの本の解説を、オヤマダアツシさんに書いていただくということも、もうだいぶ以前から決めていたことだったんです。そういった意味で今日このイヴェントができるのは、ほんとうに私にとって大きなことなんです。
それではまずお二人に、ディーリアスの音楽について、それからこの『ソング・オブ・サマー 真実のディーリアス』というエリック・フェンビーの書いた本について、個人的にどんな思いを持ってらっしゃるか、それぞれの言葉でご紹介いただければと思います。
小町 私がこの本の翻訳に取りかかったのは2015年の秋ですから、ちょうど2年になります。2年のあいだあたためてきたプロジェクトなんですけれども、ほんとうにたくさんのみなさんのご協力に深く感謝しています。私も一昨日この本を自分の手に取ったんですけれども、自分が長いあいだ取り組んできたことがこうして結実したことに、やはりすごく感激しました。
私はそもそもロンドンのコートールド・ギャラリーである絵を観たことがきっかけで、ディーリアスの音楽を知るようになったんですけれども、それがゴーギャンの『ネヴァーモア』という絵なんですね。コートールド・ギャラリーの展示はいっさいディーリアスについて書かれていなかったんですが、絵に描かれた不思議な世界に引き込まれて、その後この絵について調べていったら、なんとディーリアスがこの絵の最初の所有者だったということを知って、そこからどんどんディーリアスの音楽に引き込まれていったんです。ですから私にとっても、この本でディーリアスという人を日本のみなさまに紹介できるのは、たいへんうれしいことです。
オヤマダ ぼくは音楽ライターとして仕事をしてますけれども、それ以前はたんなる音楽ファンで、おそらくみなさんと同じように、レコードで──レコードじゃなくてラジオだったかもしれないですけど──ディーリアスの音楽に出会って、「あっ、これは何だ?」と思ったんです。おそらく自分のアンテナの感度と合ったんでしょう、その音楽がね。そうして聴き進むと、どうあってもこの本の存在を知ることになります。ディーリアス・ファンのあいだではバイブル的なものとして扱われていて、日本語の解説でもレコードのライナーノーツでも、ここからたくさん引用されていたんです。ですから、自分はこの本を読まないうちにもう接していたということになると思うんですけれども、やはり──これはディーリアスにかぎらず何でも同じですが──情報というのは伝言ゲームみたいにどんどん歪んでいくというか、新解釈が加えられたりする。だから、今回こうやって日本語でそのオリジナルが出たということじたいが画期的なことだし、いままでいろんな資料を引っ張り出さなきゃいけなかったのが、これ一冊読めばそこに全部書いてあるわけです。ぼくもペーパーバックを斜め読みくらいはしていたんですけれども、つたない英語力では深いところまで読めない。イギリスの『グラモフォン』誌の批評なみにめんどくさい英語なんです。この主語はどこにつながるのだ? みたいな。だから、こうやって日本語でみなさんが気軽に読めるということじたいがもう素晴らしいことであるし、これをきっかけに、ディーリアスという作曲家がいるんだということがもっともっと伝わっていけば素晴らしいと思いますし、また音楽家──とくに指揮者の方々がこれを読んでディーリアスを知り、「自分も指揮してみよう」と思ってほしいなと。やはり音楽って演奏されないと意味がないんですよね。音楽というのは聴くものであって、聴き手がいて存在価値が生まれるので、そういうふうになっていけばよいなと思っています。
林田 オヤマダさんは昔、音楽之友社のON BOOKSシリーズで、『近現代英国音楽入門』[1998。山尾敦史名義]という素晴らしいイギリス音楽の入門書をお書きになっていて、その本を読んだときから、われわれ音楽ライターにとってのかつての大先輩である三浦淳史さん[1913-1997]がなさっていたように、イギリス音楽を日本に紹介する後継者はこの人なのかなと思ったんですよ。オヤマダさんはイギリスの音楽に、ほんとにものすごくお詳しいんですよね。
オヤマダ その期待にはあまり応えられていないのが現状で、申し訳ないのですけれど。
林田 ただ、マーケットを考えると、イギリス音楽はこれからもとても地味なめだたないポジションのままだろうという感じはあって、じつはこんなにすばらしい音楽なんだということを、少しでもたくさんの人に知ってほしいとは思っていました。
同時に──いまオヤマダさんがほとんど言ってくださいましたが──、音楽を聴くことがもちろんだいじなんですけれど、原典資料をみんなが読めるようにすることも、とても重要なことだと思うんですね。専門家が英語で本を読んで、それを使って解説を書くというのが一般的ですけれど、ほんとなら、もとの本をみんなが読めるようにするというのがとてもだいじなことで、翻訳というものがすごく軽んじられてはいやしないかという気持ちあったんですね。原典資料をみんなが日本語で読むことによって、はじめて音楽のほんとうの需要が生まれ、普及がなされると思うので、きちんと日本語化することが、ぜったいに必要だと。もちろん、このフェンビーの書いた本は決定的で古典的な名著ですから、訳されなければいけなかったんですよ。でも、たぶん今回われわれが何もしなかったら今後30年、いや50年訳されなくてもおかしくなかった。その意味で、この本を手にして、「これが日本語になったか」と思っただけで感激したんですけど、じっさいに日本語になったものを読んでみて、想像以上にこの本は音楽の哲学書であり、また文学的な本だとはっきり思ったんですね。エリック・フェンビーという人は、想像以上に音楽の深いところに入っていった人だと思うし、われわれがいま読んでも、音楽を生業としていない人にとってもインスパイアされるような記述がたくさんあるんですね。
たとえば、エリック・フェンビーにディーリアスが与えた助言ですが──
「フェンビー、こっちをご覧。私にひとつ考えがある。良い素材をすべて選び、発展させ、そこから自分で曲にしてごらんなさい。さあ、時間をかけてやりなさい。絶対に作業を急いではいけない。何をやるにしても!」
時間をかけてやりなさい、という主張を、よい仕事のすべてにおけるもっとも重要な事柄として、彼が何度も強調するところを私は聞いてきた。ある着想の中に眠っている可能性、それも自分が表現したかった感情に相当するものを、ひと目で見分けることなどできるだろうか? 彼が私に伝えてくれたのは、完成した作品がどのようになるのかを正確に見通すことはできないが、人はかならず明確な目標を念頭に置くべきで、そこから目を離してはいけない、ということだった。達成できたかできなかったかは、もちろん、別の問題だ。しかし、良い作品とはいつも、それ自身の内的な存在の法則にしたがって形になっていくのだ。
この記述などは、音楽や作曲を仕事にしてなくても、どんな仕事をしている人にとっても、すごく考えさせられると思います。これがディーリアスの教えなんだということが、この本の中にはかなりたくさんあって、極端に言えば人生の導きの書のようにも読めるんじゃないかと思っているんですが、小町さんは訳されてみて気に入っている箇所とかはありますか?
小町 そうですね。私もすごく好きな場面がいくつかあるんですけど。やはり最初に浮かぶのは、ディーリアスが《夏の歌》を口述するシーンですね。家の裏庭にニワトコの樹があるんですが、そこの樹の下でフェンビーが近くにやってくるのを待っていて、ディーリアスは盲目だったのでフェンビーのことが見えないんですけど、「フェンビー、君かい?」と呼びかけて、「口述したいメロディがある」というふうに言う場面があるんです。そこは映画の場面のようなすごく象徴的なシーンだと思いました。
「ソング・オブ・サマー 真実のディーリアス」(エリック・フェンビー著、小町碧訳、向井大策監修 アルテスパブリッシング)
●ケン・ラッセルの映画『ソング・オブ・サマー』
林田 まさに映画になったわけですからね。この本を原作にして、ケン・ラッセル[1927-2011]が監督したテレビ映画『ソング・オブ・サマー』[1968年BBC制作。日本では1970年にNHKが放送]をとおしてディーリアスを知ったという人も、じつは昔からけっこう多くて、私もひさしぶりに日本語の字幕のついたものを観て、あらためて心を動かされましたね。あの映画がいかにこの本を豊かに再現しているかということもあらためてわかりました。その意味では、あの映画もみんなが観られるようになるといいなと思うんですけど。
オヤマダ 単館上映でもいいし、もしかしたら単発の上映会みたいなことでもいいですね。
林田 ぜひやりたいですね。
オヤマダ イギリスではDVDにはなっているので[英BFI]、Amazonでも買えますけど、日本語の字幕は付いてない。ケン・ラッセルが撮った作曲家ものの映画3本[他の2本は『The Great Composers: Elgar』(1962)、『The Debussy Film』(1965)]がセットになって、5000円くらいで売ってます。ぼくも林田さんと同様、あのケン・ラッセルの映画にひじょうにインスパイアされたました。
それと、今回この本が出るということで、だったら音楽も聴いてほしいなと思い、ぼくが選曲と構成を担当した『フレデリック・ディーリアスの音楽~楽園への道』というCDがワーナーミュージックから出たんですが──。
林田 これ、もう何回もリピートして聴きましたよ。すごくよくできてますね。自分が選曲したらどうなるだろうと思ったんですが、やはりそうとう重なる部分がありますね。
オヤマダ それは同じでもいいし違ってもいいし、人それぞれだと思っていて……。
林田 最初の4曲くらいは自分でもぜったい入れたいと思う。それをオヤマダさんが選んでくださったこともうれしかったです。
オヤマダ それで、ぼく自身あの映画に取り憑かれてるんだなと思ったのは、やはりね、1曲目に《春はじめてのカッコウを聴いて》を入れたいんです。あの映画で、フェンビーがお父さんといっしょにチェスか何かをやっていて、ラジオからこの曲が流れてくるのを聴いて、「なんだこの音楽は?」って思ったのが、ディーリアスの音楽との出会いなわけですよね。僕もまさに同じ曲でディーリアスの存在を知ったので、とても共感できるんです。
林田 美しいシーンですよね。
オヤマダ それから、ボーナストラックを2曲入れちゃったので厳密には最後の曲にできなかったんだけど、やはり本編の最後を《夏の歌》で締めたかった。あの映画も最後、《夏の歌》で終わるんですよ。ディーリアスが亡くなって、イェルカ夫人がディーリアスに手向けるように花をパッと撒いて、エンドロールが始まるという、あそこからぼく、抜けきれてないんだということを、今回選曲してみてあらためて思いましたね。この本も、読みながら、「あ、あの場面はこうだったのか」と後追いで探すみたいな……。
林田 そうそう、まさにそう。
オヤマダ まあ、それだけあの映画が強烈だったということだと思うんです。
林田 そうですね。格調も高かった。
それと、あの映画のテーマでもあり、この本のテーマでもあると思うんですけれども、エリック・フェンビーは青年時代に、盲目で体も動かなくなってしまったディーリアスのところに行った。彼はディーリアスの音楽をとっても愛していて、自分が彼の助けになりたいと献身的に申し出たわけなんですけれども、そこで直面したのは決定的な相違なんですよね。おたがいに相容れることができないくらいに決定的に深い溝がフェンビーとディーリアスのあいだにはあって、それにもかかわらず二人が理解しあって、素晴らしい仕事を成しとげていくという、その葛藤が、本においても映画においてもいちばん面白いテーマだと思うんですよ。
今回いくつかの場所で書きましたけれども、ディーリアスは無神論者です。ニーチェが大好きで、音楽に対する考え方においても、たとえばハイドンのことはまったく認めていない。いっぽう、フェンビーは敬虔なクリスチャンで、しかもハイドンに対してすごいリスペクトをもっているわけです。そういうのって、おたがいの想いが強ければ強いほど、決定的に溝ができるわけですよ。
われわれの日常生活でもじつはかなり経験することですよね。おたがいすごくうまくいってる関係なのに、音楽のことでぜったいゆずれない溝を感じてしまうことってあると思うんですよね。それを克服するのは、じつは想像以上にたいへんなことじゃないかとぼくは思っているんですが、それはなぜかと言うと、自分の好きな音楽が自分の存在のいちばん深いところに根を下ろしていればいるほど、自分自身を否定されたような感じになっちゃうんですよね。だからすごく怒りを感じたりする。
これはすごく象徴的なことだと思うんですけど、いまいろんなところで考え方の違いということが、この国の人々を引き裂いていると感じているんです。政治のこともそうかもしれませんし、いろいろなことにおいて価値観の相違とか考え方の相違が、人々のあいだにたくさんの溝を、亀裂を作っているのがいまの世の中だと思う。だから考え方が違うんだけれども、音楽は素晴らしいという部分で、おたがいリスペクトを保ちながらちゃんと歩み寄ることができているという、二人の関係が象徴するものは、いまの日本の社会にとってもすごく大きなことなんじゃないかなと思うんです。そこはぜひ、みなさんにもこの本をとおして感じていただきたいところです。
ディーリアスってほんとにニーチェが好きだし、神様をすごく否定する場面がこの本の中にはたくさん出てきますよね。ちなみにぼくはニーチェが大好きなんですね。1989年ごろ日本フィルが定期演奏会で《人生のミサ》[ニーチェの『ツァラトゥストラはこう語った』をテクストとする]をやったんですが[1989年6月29日、チャールズ・グローヴズ指揮]、あれに行ったことが自分にとっては決定的なディーリアス体験だったんです。だから、そのあたりの話がこの本の中にいっぱい出てくるのが、ぼくにとってはすごく面白かったです。
※続く