【応援メッセージ03】映画作家・大林宣彦さん
vol. 5 2014-03-22 0
現在の、映画的不幸に、
負けてはならぬ。
「シネマ尾道」のデジタル化について
大林宣彦(映画作家)
映画は科学文明が発明した芸術だから、技術が開発される度に進化する。先ずは写真が動き出して映画となり、続いて無声が発声に。黒白映画は色彩を持ち、画面はどんどん巨大になり、ついには平面が立体ともなってくる。そして今は、フィルムが無くなって映画はデジタル製作、デジタル上映の世を迎えた。
まことに、人類がロケットに乗っかって、月にまで飛んで行ったような騒ぎである。だって無声映画がトーキーとなり、俳優たちが自前でセリフを喋らねばならなくなった時には、多くの無声時代の大スターや名優が失職した。モノクロオムがカラーへと生まれ変った際には、これでもう黒白映画による芸術は壊滅した、と名だたる映画芸術家たちは大いに落胆。スタンダードといわれた黄金分割の画面がにゅうっと横長に伸びてシネスコープになった時には、これじゃ蛇か汽車しか映せないぞ、と大騒動に。挙句は3Dなど映画じゃ無く、デジタルでは演出が出来ぬ、という声も聞こえて来るきのうきょうである。
けれどもこれは、科学文明の進化がそうさせているのである。有り難いことにデジタル機器の開発の御陰で、今では小学生でも映画製作が可能となったし、多くの若い在野の才能がどんどん映画の新時代を創造し始めている。小さい機材に照明無しでも撮影が出来、パソコン一台で合成・編集も可能である。現在七十六歳のこの僕だって、最近の二本の映画はそうやって拵えてみた。上映用には、フィルムを先ず作り、それから、これが実は厄介なのだが、デジタル上映での劇場用DCPなるものにブルーレイ、DVDと、四種類の素材を作って対応した。昔風のフィルム上映を守る映画館もあれば、最新鋭のシネコンはDCPという、これも最新鋭の巨大なデジタル上映機器が必要。どっちかに統一したら、と思われるかも知れないが、しかし海外での上映はブルーレイを一枚胸のポケットに入れて出掛ければそれで済むし、学校の教室内ではDVDで充分だ。こういう所は科学文明の進歩の御陰で、上映の機会がどんどん拡がってゆく。更に演出の上でも、予算組みや、スタッフ編成や俳優構成も、デジタルシステムの導入でいろいろ新しい試みが可能となった。
要は、フィルムで出来ることはデジタルでは決して出来ないし、そのことは逆に、デジタルで出来ることはフィルムでは決して出来ぬのだ。サイレントとトーキーが全く別物であるように、フィルムとデジタルとは別個の魅力を持ち得る存在であるのだ。で、科学文明は新しき力を得れば古いものは捨てながらどんどん進化してゆけばそれで済むのだが、こと芸術に関してはそうはゆかない。ここが肝要なのだが、決してそうさせてはならない。考えてもみようではないか。モノクロオムにはカラー映画とは別の美しさがあり、サイレント映画の魅力はトーキーとはまた違う魅力で今なお健在だ。巨大スクリーンの迫力と小さなスタンダードフレームの整いの美しさとは映画上映の多様性として共に貴重なものだし、フィルムとデジタルだって、故に人類が生み出し得た至宝として、共に永遠に保存すべきものである。
しかしそれでもその渦中にあれば、人間は右往左往する。殊に映画を上映する装置は、現実社会の中では経済観念に左右されるから、科学文明や芸術的価値とは関係無く、興行的な見地から甚しい混乱を招く。現在の街の映画館状況が、正しくそうである。僕が知る映画館の中でも、ならばいっそこの際フィルムだけを上映しよう。新作のデジタルムービーには目もくれず、百年に亘る人類の宝であるフィルム専用の映画館にしようと、16ミリや8ミリの映写機までを準備して、これがなかなかの人気。あるいはそれにDVDやブルーレイを併用して新しい時代の尖鋭的な映画も共に愉しむ。これは一つの英断でもあるのだが、しかし新作のメジャー系の作品だけはDCPでしか上映出来ないように製作されているので、それらの映画を上映しようとすれば、どうしてもDCPなる高額の映写装置を設置しなければならず、それが経済的に無理だというので廃館に追い込まれる映画館も多い、というのが現在の映画の、言うなら不幸である。
この科学文明の進化の一つの端境期に於いては、映画という芸術に向かい合う僕らの側にも、様ざまな自己判断による選択を迫られる訳だが、何れの場合も考えなければならぬのは、映画なる人類の至宝を決して失ってはならぬということだ。チャップリンのサイレントによる人間悲喜劇も、小さなスタンダードのモノクロオムで表現されたJ・フォードの傑作西部劇『駅馬車』も、『オズの魔法使い』の塗り絵の如き色彩も、現代のデジタル3D映画と同様に、決して古びることなどなく、永遠に僕らの魂を揺さぶり続ける映画の名品だ。それを人類の至宝として末代まで保存し、育んでゆくためには、街に人がいて、そこに映画館があることが大切だ。
あなたの大好きな映画のことを、いま一本ゆっくり思い出してみて下さい。その映画と出逢うことが無かったら、あなたの人生はどんなに淋しいものだったでしょう。あるいは今、核兵器のボタンを押そうとする人が、チャップリンの『独裁者』かクレマンの『禁じられた遊び』を見たならば、きっとその手をボタンから離すことでしょう。それが映画の力、美しさ、賢さ。人類の誇り。……
「シネマ尾道」は、いまひとつの大きな岐路に立たされております。どうか皆様の映画への愛、誇りを、僕らの共有の宝である、この映画館への熱い目差しの中で想起し、ひととき、あなたの大切な人生の時間を映画なるものに手向けてみて下さいな。僕らは映画と共に生きて来た。この温りをこそ、僕らが夢を信じ、勇気をもって生きてゆく、未来への糧として。それを一つのフィロソフィとして。……