素直にー⑥
vol. 19 2019-11-19 0
⑤からの続き。
他人の評価、それを使って自分を振り回してきた自分に気付けた・・・
・
・
・
評価というものについて。
・
・
評価。
それが嫌だというのもあって、わたしは描いたり、つくったりする道をすすんできたのでした。そうだったなあと、評価されてビエンナーレの場にいる自分が、そう思いだしていました。
・
大人の評価。
これは、大抵大人の都合です。大人に都合のよい社会・環境にするための、基準と評価です。
子供の野生的直観を尊重した社会は秩序を保てない、と思われているし。
要領よくは、事が運びません。大人には退屈で面倒で無駄と思える時間が、必要とされる。
それであってもわたしは、大人の事情や、大人の評価、政治的判断が社会を牛耳り過ぎると、社会がどんどん悪い循環をおこして筋肉疲労みたいなものを起こして、壊れるのではと。そう感じています。
・
・
・
この、ビエンナーレのあとに、わたしは建築デザインを夫妻で営む友人に会いました。
旦那さんが、奇遇にもブカレストで開催されている建築のトリエンナーレで審査員をつとめたということだったので、
わたしは思い切って聞いてみたのです。
・
・
・
「作品を選ぶときに、どんなことをあなたは基準にしているの?
何を大切にしてる?作品を選ぶってどういうことだと思って居る?」
・
単刀直入に、自分が知りたいことを聞きました。
それで、彼が答えたのはこうです。
「大体その領域の文脈とか時代性、今大切にされてることって基準だね。
領域にとって革新的かとかもね。今回ぼくが審査したコンペティションだと、「家」がテーマ。家というものの枠をどう捉えているか、だから、「家」というポイントは離れすぎちゃいけないとか。大体ポリティカルに判断されてる。
ぼくも一応ポリティカルな判断基準も持ってるけど、最終的にはすきか、嫌いかでどの作品を選ぶか決めててね。まあアートやデザインの世界でそれは普通ではないんだけどね。
僕は最終的には直感のタイプなんだ、ははは」
ははは、て。
本当に軽やかな人。(奥さんは彼の事、ロマンチストで詩人なの、建築家なんだけどロジカルな考えをあまりしないのよ、本能だし、抽象的な表現を好むのよ〇)
こうも言っていました。
「ポリティカルな判断というのはつまり、だれでもそれを使おうと思えば使うことができる、ということなんだ。ぼくはね、僕がいるから、このコンペティションに出したいと思ったデザイナーもいるって思ってる。うーーん。いてほしいね(笑)
それって、ポリティカルな基準ではなくて僕がどう感じるかが大切にされているって言うことになると思うんだ。誰でもいいわけじゃなくて、僕が見てるっていうこと。僕の眼や、感性、考え方が大切なんだと思う。
それがいいんだ。だから僕は自分の直観を信じるんだよ。好きか、嫌いか。好き、嫌いというのは、その人の人生で満ちているからね。楽しいじゃない、僕の人生で作品を観るんだ。
選ぶっていうのは、そう言うことだと僕は感じてるよ。」
・
・
すてきなかたです。「I really feel so. (僕はそう感じてるよ。)」
やっぱり「感じてる」が大切なのだなと、彼が満足そうな顔でそういってくれたのをみて
じわりじわりと感じました。
建築家って実はこれまで出会ったことがなくて、建築家はロジカル思考というイメージもなかったのだけれど、少なくともわたしはこの夫婦にあったことで、
「〇〇家」だからこういう傾向、こういう体質、こういう思考だということ、ないんだなと。
彼らの会話はまるで夫婦漫才で、(奥さんは情熱的なだけれどもとてもロジカル。常に優勢。)
・
・
彼が話してくれたような話、ビエンナーレでも聴けたらよかったけれど。
少なくともカンファレンスのあの場はまさに「ポリティカル」だったなあと。
思いだす。
・
・
・
でもあの場に行けたから、わたしは中途半端にできてるつもりだったことや、
中途半端に適合しようとしていたことも、
自分の本心にも、気が付くこと、できました。
・
・
居場所を求めていたのだと思います。
自分が安心して所属できる場所。「ここは大丈夫」という安心が、社会の中にほしかったのだろうと。自分のことなのに「だろう」って言うのも変な話ですが。
・
またそれと同時に、憧れる場所とか、人も同時に居ました。
その場所と、自分の安心を、同じにしようとしていたのですね。
輪っかと輪っかが、すーっと合うように。
・
その場所に行きたいがために、自分の考えや感覚を微妙に調律していたのが、
自分に正直といえる行動ではなかった。
・
憧れに自分を合わせていく。
それって、なんていうか、間違った恋愛に似ていますね。
憧れの相手仕様の自分になろうと、自分を変える。
それが本当に自分が心から求めることと重なっているのならいいけれど。
もしかしたら最初はそうだったかもしれないけれど。
「ちがうんだ」と気づいたなら、軽やかに身をひるがえして「こっち」と思う方へ歩む。
その先に、「居場所」といえるものがないなら、自分が動くことで安心できる居場所を社会の中に、つくっていけばいいだけ。
自分の行動の軌跡が、私の居場所になっていく。
かっちりとしたかたちよりも、そちらに自分がある。
・
陶芸そっくり。
・
今回長くなりました。⑤・⑥でひとつだったので。
・
長く書いてしまったけれど、大切なのは、自分の選択。いつだって。
仮に「正解」があるとしてそれを実現するように選択していけるのは、自分。
・
・
・
ものすごく、当たり前のことなのかもしれないけれど、
その当たり前が今の社会だと見えなくなりがちかもしれないなあと。思います。
・
ようやく、ここ。
・
ではまた次回に。