令和2年7月豪雨(熊本豪雨)と本作に引用された短歌について
vol. 3 2022-09-17 0
遠山昇司監督と10年来の友人であり、本作はもとより、人生や文学・芸術について様々な対話をしてきた八代市在住の文学研究者・歌人 池田翼さん。令和2(2020)年7月豪雨の経験を「河床の夢」(『木綿葉 』第15号)という連作短歌にまとめた池田さんに、その体験や短歌を遠山監督と共有し、語り合いながらともに川辺を歩いたことや、そのときのやりとりがもとになった本作『あの子の夢を水に流して』の脚本、引用された短歌について語ってもらいました。地域で起きた豪雨をどのように経験し、短歌に思いを込めたのか。本作をより深く味わっていただくきっかけになればと思います。
(写真は令和2年7月4日午前に池田さんが撮影した増水した球磨川支流前川)
文:池田 翼
特別警報のけたたましい通知音で目覚めた令和2年7月4日早朝、スマホの画面には「球磨川氾濫」という信じ難い文字が貼りついていた。
執拗なまでに降り続いた豪雨が、球磨川の「暴れ川」としての姿を呼び覚ましたのだった。
飛び起きてベランダから見たその川は、猛り狂い、溢れんばかりだった。叫ぶような轟音が聞こえ、土砂を掘り起こしたような濁流のにおいが鼻をついた。川岸から200メートルほど離れた自宅から川の音やにおいを感知できたのは初めてだった。私には、その川はとても苦しそうに見えた。身悶えし、呻(うめ)いているように感じられた。幸い私が暮らす河口付近では大きな被害は出なかったが、上・中流では甚大な被害を起こし、多くの人々の“生活そのもの”を拉(らっ)し去った。
午後、雨が止んでからも猛烈な川の流れは治まらなかった。恐ろしく濁った水は木々や土砂などの自然物ばかりではなく、人々が築いたありとあらゆるものを流した。家具・家電の類、ドラム缶やクーラーボックス、犬小屋まで、“水に浮かぶもの”は大抵見ることができた。
長い間それらに目を奪われていた。ふと、「この濁流の中、増水した凄まじい流れの中、そこは真っ暗闇で、“沈むもの”が流れている」ということに思い至ったとき、息が止まるような思いがした。
災害後にまとめられたアーカイブ「 球磨川水害伝承記」によると、球磨川流域の犠牲者は50名にのぼる。
水位がもとに戻ってからも、川の濁りはしばらく戻らなかった。河原は、流木や「流れてきたもの」で埋め尽くされている。「災害ごみ」とは言いたくない、それらは失った人にとってはごみなどではないから。下流の人々は途方に暮れながらも、少しずつ手を動かして、貴重品をより分けたり、危険物を取り除いたり、神仏の木像を起こして木陰に立てかけたりした。
このときの感慨を、連作短歌「河床の夢」にまとめ、同人誌『木綿葉』に発表した。
文芸同人誌『木綿葉 』第15号に掲載された連作短歌「河床の夢」冒頭
そこには、暴れる球磨川の苦しそうな姿や災害の悲惨を詠み込んだが、例えば次のような一縷の光ともとれる情景も記録した。
柔らかき若葉を芽吹く激浪に打ち上げられた流木の枝
また、連作の最終首はティザーサイトに掲載されているものだが、そこでは命を包み込むような川の優しさを詠った。
やさしげに霧う水辺の奥底に眠る命の呼吸を聞いた
災害は悲惨なもので、被災者の方々の苦悩を思うといたたまれない。ただ、それでも我々は生きていくしかなく、川は川としてそこにあり続け、たおやかな流れを止めはしないのだ。
小雨のそぼ降る中、「川が見たい」という遠山監督とともに、流失した深見発電所跡あたりに出かけたことがある。被災から半年ほど経過していたが、撤去が追い付かない豪雨の跡を見て廻った。捻じ曲がった球磨川鉄道の線路沿いを歩いたあと、「トンネルの中に光が発するイメージが見えた」と言っていた。思うに、このとき本作の着想を得たのではないだろうか。
映画『あの子の夢を水に流して』は、幼い我が子を亡くした「瑞波」が、故郷の川の流れを見つめながら、自分自身、そして亡き我が子との関係を紡ぎなおす物語である。豪雨も家族の喪失も、容赦のない痛ましい経験である。その悲惨さに直面した折、忘れる/立ち直るという積極的な回復が難しくとも、川の流れ=時の流れによって、運命とのなし崩し的な和解を得ることはできる。本作にはそのような“流れること”の優しさの手触りがある。
球磨川河口付近に打ち上げられた流木(令和2年7月19日 筆者撮影)
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池田 翼(いけだ・つばさ)
熊本電波高専を卒業後、熊本大学にてジャズと日本文学の関わりを研究。修士論文テーマは「中上健次とフリージャズ」。熊本朝日放送にてテレビ広告のセールスに邁進したのち、熊本高専にて再び文学研究の道へ。教育の分野では国語×キャリア教育×リベラルアーツをミックスした横断的な展開を図る。文芸同人誌『木綿葉』への発表を中心に歌人としても活動中。