脚本家・アニメーション映画監督、中村誠さんからコメントをいただきました!
vol. 7 2022-11-16 0
あのチェブラーシカなど多数の作品の脚本・監督を担当されている中村誠さんに、一足早く映画を観ていただき感想コメントをいただきました。本当に素敵なコメントです。
是非ご覧ください!
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『THE STOLEN PRINCESS(英題)』はウクライナのCGアニメーションである。拐われた王女をヒーローが困難を乗り越え、救い出す。オーソドックスなストーリーはおとぎ話と言ってもいいくらいのものだ。主人公たちのキャラクターの造形は「アナと雪の女王」の頃のディズニーのようでもあるが、モブは全く違うテイストであり、また、演出の方法には日本のアニメの影響も感じる。それらが混在したルックや演出からは不思議な印象を受ける。不勉強ゆえ、ウクライナのアニメーション事情に詳しくないので、あまり語れないのだが、ただ、この映画から感じるのは、とにかく観ている人たちを楽しませたい、という強い気持ちだ。そのことがまず、観ているこちらの心を打つ。
しかし、この映画のもっと重要なポイントは別のところにあるのではないか、と個人的には思う。
主人公のルスランは三流の役者であり、ヒロインは王女である。王女ミラは王女としての人生を送ることあらかじめ決められており、ルスランは何者でもない(役者だから何者にもなれるという役割でもある。何度も他の登場人物にルスランは「三流の役者だ」と言われる。作者がそこを強調したいからだと思う)。
物語はお伽話から始まり、それが実は現実の話であった、というプロットでルスランとミラを巻き込んでいく。ルスランはミラを救うために騎士であろうとする。王女としての人生を決められていたミラはトラブルに巻き込まれながら、王女という決め込まれた生き方から自分自身の生き方を探ろうとする。
つまり、この映画は「何者かになろうとする」という物語なのだ。実際の人生において、「何者かになる」というのは困難なことではあるが、誰もが心の中に持っている願望である。誰もが、何者かになりたいのだ。その答えを、この映画はラストに用意している。詳しくは内容に触れるので語らないが、物語は「肩書とは関係なく、何者かになった者たち」を提示して終わる。
つまり、そういうことなのだ。誰もが何者かになりたい。何者かになるための一番の方法は、誰かにとっての大切な人間になることなのだ。私も、あなたも、誰かにとっての騎士に、または王女になれるのだ。誰もが、誰かにとってのかけがえのない何者かになれるのだ。
映画は最後に、再びお伽話のような語り口で物語を終える。「この映画はルスランとミラのお話でしたよ」、と。それは作者のメッセージでもある。「あなたのお話もきっとあるはずですよ」、というメッセージだ。
誰かというのは、他人である必要さえないのだ。もしもあなたが誰かにとっての何者かでなかったとしても、あなたは、あなたにとって大切な人であれば良い。あなたは、あなた自身の人生の主人公であり、ヒロインなのだ。あなたの人生は、あなたの物語なのだから。
想像してほしい。取るに足らない存在など、どこにもいないのだと。80億人の人が今、世界中にいる。数字ではなく、感じてもらいたい。その80億人の人は、その人たちの人生の主人公なのだと。取るに足らない人間など一人もいないのだと。この映画を作ったスタッフたちはそう私たちに伝えているのではないかと私は思う。そしてそれは、今の世の中にとって、とても大切なメッセージだと思うのだ。
中村誠(脚本家・アニメーション映画監督)