1000日に及ぶ世界一周からの帰国 (本の原稿少し公開 #5)
vol. 9 2021-05-03 0
世界一周の終盤、シベリア鉄道でロシアを横断し、19ヶ国目モンゴル。つい昨日まで2年8ヶ月間も西洋やラテンの国々に居たわけなので、その国境を越えるといきなりアジア人の国になって不思議な安堵感、初めての国なのに何だか懐かしく感じる。首都ウランバートルでは英語よりも日本語の方がよく通じた。
ここではそれまでほぼ同じ時期にバルト三国からシベリア鉄道を横断したカナダ人のオッサン、20歳から約30年くらい放浪していたGerardとは別れることになった。中国のビザがここではどうしても降りないというもので諦めてタイへ飛ぶそうだ。日本人はモンゴルも中国もビザなしで行けるなんて、本当に恵まれてる。
そして夜行列車にのって、20ヶ国目の中国へ・・・この国が最後の国になった。悪趣味な虹の形をした巨大な人工物が国のエントランスゲートであり、その怪しさに失笑してしまう。そのまま万里の長城を横切り北京へ。
ちょうどその時中国で大規模な反日デモがあっていたようで、いろんな友人達から『中国に行くのであれば気をつけるように』とメッセージを頂いた。当時の日本でもPM2.5の中国の大気汚染による日本への被害などが毎日メディアに取り上げられていたり、お互いがお互いの足を引っ張る様なことをしていた。
北京の路上では『魚釣島(尖閣諸島)は中国のものだ!』の様な反日グッズも販売していたりもした。
だけど百聞は一見にしかず、やはりメディアなどは僕らの印象操作であり、そこに行っても危険なことは何一つなかった。国や権力者同士が揉めているだけであってそこにいる人達が僕らに喧嘩腰なのかといえば全然そうでもない。
実際にデモやってた人達に話を聞くと別に日本が嫌いなわけでは無くノリやパフォーマンスでやってただけだって(ノリでそんなことやってる社会も怖いと言えば怖いけど)
とある食堂に入ったとき
『お、日本人か??こんな時期に中国に来るなんて、不安じゃなかったのか??』
「いやいや、全然そんなことはないよ、だって僕が旅行して出会うようなおっちゃん達が悪い人ばかりではないでしょ」
というような会話も交わしたりした。
そのころはちょうどクリスマスだったので宿で仲良くなった旅行者達とクリスマスパーティーをした。僕にとってはの海外での3回目のクリスマス及び27歳の誕生日。
ちょっと贅沢して中国式マッサージをやってもらい。そのまま夜の街へ繰り出す・・・・がロクにお店もやってなかったので記念に屋台でヒトデやサソリやヤギの金玉などグロいものを食べ歩いた。そして・・・・誕生日を祝ってもらった連中に別れを告げ。
最後の都市、青島の港町へたどり着いた。ここから下関へ向かう船に乗る。
ここが旅の終わりと思うといろいろと感慨深かった。
2年9ヶ月前の旅だったころの気持ちを思い出し、今日までの出来事を頭の中で走馬灯のようにイチから振り返る。
何故日本を離れたのか、、、広い世界を見てみたかった気持ち、自分の人生を変えてみたいと言う思い、そして窮屈な日本社会から逃亡したいという気持ちもあった。
そのおかげでこの旅で言葉では伝え切れないくらい数えきれないくらいのことを得れたと思う。やりたいこと、行きたかった所はほとんど行ったというだけでなく、狭い視野で生きていた自分は大きく変わった。
日本人・外国人を問わず色んな人との出会い、新しい価値観との出会い。
この旅の思い出ってのは自分にとって一生涯の財産になるだろう。
本当によかった。27歳だけど自分の人生、十分に満足した、明日死んでも後悔はしない。
え・・・もう死んでもいいのにまだ自分の人生は続くのか?それはラッキーだ、余生を十分楽しもうではないか!!
そんなことを考えながら一人海沿いを歩いていた。
そして、最後の日。それは旅立ちの日ではなく帰る日なんだけど、何とも言いい表せない感じ。旅が日常になってしまっていたので、この日常を終えるというのはある意味旅立ちの日ともとれる、不思議な気分。
タクシーに乗って船着場へ。
その時ちょうど下関から船が到着している時だった。日本から帰って来た同胞たちを出迎えに来ている人達、再会してはしゃぐ人々、花束を渡して抱き合うカップル・・・・
きっと僕が下関に着いたとしてもそういう風に出迎えてくれる人はいないだろう・・・・・それは寂しいことかもしれないけれど、そういう人がいないからこそこうやって自由気ままに海外放浪出来た訳だ。
簡単な出国手続きを済ませ、移動バスに乗って船へ向かう。
こういった手続きはもう慣れてるはずなのに、この一つ一つの作業が新鮮だ。まるで旅立った時と同じような新鮮さがここにはある・・・
このフェリー会社は日系企業であるためにサービスがすべて日本スタイル。カラオケ宴会場があったり、浴場はシャワーだけじゃなくて湯船だったり・・・売店は日本円表示だし、館内放送は日本語と中国語、そして日本語のアナウンス、すべてのことにいちいち感動していた。久しぶりにこんなにたくさんの日本語を目にした。
そして、2泊3日の船旅の末、2012年12月29日朝9:00頃、、、、朝日と共に陸が見えてきた。
あれはまさしく、『日、出る国。日本だ!!』
甲板で一緒だったこれから中国人研修生と一緒にはしゃぐ!
それは、なんて事のない船旅の1シーンなんだけど僕にとってその光景は神々しく見えたものだ。船はゆっくりと下関の港へ到着し、僕は荷物を背負い、船の出口へ向う・・・・抑え切れない胸の高鳴り、その一瞬一瞬を噛み締めて。
そして感動の瞬間、1005日ぶりに日本の地を踏む!!!
簡単な荷物検査と合わせて入国手続きを行う。
そのとき一人の係員が
『何かわからないことはありますか??』とわざわざ聞きに来てくれて、思わずゾクッとしてしまった。なんて親切なんだろうか・・・・
入国審査官でこういう風に聞いてきた国って今までにあったっけ???
それは今までのどの国よりも短い入国手続きだった。
仲良くなった中国人研修生のとあるグループは僕の実家の近くで働くらしく、お迎えに来ていた方にお願いして近くまで便乗させてもらうことにした
関門橋をこえて九州へ・・・・
実家が近くなってきたその道中に『花立山』といううちの地元のシンボルのような小高い山あるんだけどそれを見て一人ではしゃぐのを見て笑うみんな。そして見えた大刀洗という町の表示、懐かしい・・・・
実家まで送ってもらわずにあえて1km手前くらいでおろしてもらい、そこから歩いて帰ることにした、乗せてくれた渡辺さんありがとうございました。
家までの帰り道、久しぶりの生まれ育った地元の風。
こうやってバックパックを背負って家に向かっていると小学校時代にランドセルを背負って歩いて学校から帰っているのを思い出す。
こういう風にホーム=家という概念があるのもすごく恵まれたことなんだ。
そういう国に生まれたということ、そういうものを自分の両親が守ってきたということ。今まではそれが当たり前だと思っていたけれど、そういうことに素直に感謝できるようになったこともこの長い期間で視野がひろがり別の視点から自分のことを観れるようになったからだろう。
うちの実家は鍵をかける習慣が無いので、家に着いては玄関をガラガラと開ける。
そして子供の時のようにでっかい声で「ただいまー」と叫ぶ
出てきたのは3番目の弟。
実際に会って会話するのも約3年ぶりだった。でも全く違和感が無い。いつもそばにいたような不思議な感覚。離れてた時間も距離もあっという間に縮んでいく。
そしてその日の夜は中学の同級生達が忘年会やってたので当時のブログを読んでくれてた同級生たちが招集してくれた。
今日帰ってきたはずなのに、もう旅してたときのことなんて忘れてしまったような・・・・ずっとここに住んでたような・・・・遠い昔に旅してた様な・・・・ただ長い間夢見てただけのような、どう表現したらいいのかわからない、言葉では決して綴れない不思議な気分。
それは、とても長い一日に感じた。
こうやって、ずっとやりたかった壮大な目標を達成した僕は、その瞬間はその時が自分の人生のエンディングのように感じていたけれど、後々思えばそれははっきり言って序章だった、その後の人生の方がもっとドラマティックになるとはこの時はまだ知らない。